出生して赤ん坊になる、親になる

 現在公開しているシリーズの続きです。2008年11月が最終更新日となっています。ブログの文章に似ていますが、前回のものの続きとして保存されていました。途中、事例について具体的な記載があり、その部分は残念ながら省かせていただきました。また途中、ある助産院の名前が挙げられていましたが、そこは修正させていただきました。

 なお、この後は事例検討となっているため、このシリーズの原稿の公開はこれが最後となります。

 

 

出生して赤ん坊になる、親になる

 

 出生して赤ん坊はおギャーと産声をあげる。この産声が誕生の証である。

 X助産院のA助産師は産声おギャーは出産の驚きの声であって、子どもが安心して生まれてくるとこのおギャーが出ないと言われた。一般的にお産というと痛い苦しいというイメージから血まみれという印象を持ちやすいが、正常分娩であれば血は出ないということである。確かに我が家の猫が出産したときも血は出なかった。猫のおギャーもなかった。はじめは出てきた赤ん坊を引きずったが、後は寝床に入れてやると5匹を生んだ。おギャーは無かった。いつの間にか生まれていた。

 安心して自然に生まれるとおギャーは無いのではないか。出産のときに声を出すと他の動物に狙われて危ないから生まれたとき声を出さないのは自然である。人間だけが産声を上げるようになった。しかし、それはこの世に生まれ出てきた驚きのこえである。うれしい驚きか悲しい驚きかわからない。安心して素直に生まれてくると産声が無いというのはとても自然な気がする。X助産院では水中出産を行う。母親は夫に抱きかかえられ、暖かいお湯の中で出産する。助産師の指導を丁寧に受け、信頼できる関係を作って、夫の抱擁のもとに出産すると母も子も共に安心し、静かに息を始めるのではないかと想像する。誰しもこうして安心して人生をスタートしたいものである。

 生まれてきた赤ん坊は大きな目を開いてみている。大きなまん丸な目が印象的である。赤ん坊はあの大きな目で世界を、そして五感がすべて働いてこの人間の文化を見ようとしているのだという乳幼児の専門家の声が今年参加したある学会で印象に残った。

 (障害を持って生まれた子供を持つ親の事例について具体的な記載あり)多くの人が生まれた子どもを抱え自分もこの子と一緒に自分の人生をしっかりと生きようと思うのではないか。赤ん坊の大きな目の中には生きようとする健気な心がある。それに刺激された親も健気になる。ここに家族の基本がある。健気な生き方、それが人生の基本ではなかろうか。

 赤ん坊は7日目くらいから目が見えると言われていた。しかし、実際ははじめから見えているのではないか。そして7日目ぐらいから動くものを目で追うようになり、次第にそれがはっきりしてきて、動くもの、そしてその中に顔を認知するようになる。そして一番良く慣れ親しんでいる声の、養育者である母親の顔を認知し、笑うようになり、3ヶ月で無差別の笑顔、6ヶ月で人見知り、つまり、良く見知っている人とそうでない人を区別するようになる。6ヶ月では見知らぬ人を見て恐れを感じ母親に寄り添うので、ここで母親の刷り込みがある程度完了していることになる。

 親の刷り込みは鳥類では卵から孵って、濡れた羽が乾き、ふっくらとしたひな鳥になった頃、前で動いたものが親になる。それは大抵親鳥だが、ローレンツ、Kは孵したひな鳥の前で動いて、ひな鳥の親になって連れ歩きドナウ川までひなを連れて遊びに行った。

 動物学者正高信夫は授乳の様子をビデオで撮影し、母とこの関係を分析した。

 赤ん坊は乳房をくわえてお乳を吸う、すい続けてしばらくすると止まる。すると母親は赤ん坊をゆする。ゆすられた赤ん坊は目を覚ましまたお乳を吸う。これがずっと繰り返される。お乳を吸う。止まる。ゆする、またお乳をすう。このリズムが母と子の会話のリズムで、このリズムが良いと後の母子の会話うまく行くというのである。これも母子関係の重要な発見の一つである。

 母親は赤ん坊の声を聞き分けると言われていた。実際聞き分けるのはとても難しい。時の流れに従って今はおむつ替え、おっぱい、あついなどいろいろ時と場合によって赤ん坊の状態を想像しながら対応する。そのとき赤ん坊が何を求めているかをわかる能力は、想像力や声の聞き分けなどすべてを使って行われる。そこには子どもの気持ちをわかろうとする相手志向の態度がある。母親は基本的に相手志向になっていると思われる。

 この相手志向の態度が母親にはとても幸せな安心感をもたらす。

 勤めから解放され出産した女性は、出産前は子育てはどんなに大変かと思っていたが、いざ子どもの世話をしてみると、自分の生活リズムとは違う、赤ん坊の生活リズムに合わせた生活だが、それがとてもうれしく幸せであると感じた。

 お母さんと確執のあった佐野洋子さんも『わたしの猫たち許してほしい』の中で、子どもは嫌だと思っていたが、出産して子どもを抱いたとたん可愛いと思い、その子の母親になったと書いている。

 親、特に母親は出産して子どもを抱いたとき、抱いて子どもの顔を見たとき可愛いと思い、母親になる。これは極めて生物学的な変化ではなかろうか。身体全体が育てる親に変質するのであろう。

 

 

 

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