西村洲衛男の病状について

20191024 病状報告 私の離人症

私が聖者になって祭壇に帰ってきたと夢見た人がありました。この夢から考えると私の形而上的精神的な部分が独立して聖者になったと見ることができます。夢を見た人のたましいは、私の精神的な上部構造がサンバの饗宴の下部構造から遊離していると見ています。たましいは私が離人症であることを知っているのです。夢を見た人は私の現在をご存知ありません。現に今私は大手術によって味覚と美味しいという感情を失っています。たましいの目はおそろしいとおもいませんか。サンバの饗宴に参加することで問題が解決するとよいのですが、期待しましょう。

離人症という神経症は以前から記述はされているのですが、あまりまとまったものはありません。

例えば、

自分が自分の身体から少し浮き上がっているような感じ

自分の声なのに自分の声でないような感じ

自分の手が自分の手でない

自分の足が自分の身体から伸びているのに自分の足にみえない(漱石)

もう一人の自分が頭の上あたりから自分を見ている

景色が絵のように見える

景色が異様な輝きを持って見えた

下宿の部屋が異常な輝きを持って見えるので困ります

寮の部屋で一人でいたとき同僚に対する怒りが沸いてきて、到頭堪らずグッと抑えた。すると頭の上の方へフーっと何かが抜けそれ以来ご飯の味がしなくなり感情が無くなりました。

最後の例からわかるように離人感は攻撃性や愛情の抑圧に関係がありそうです。現在の私の場合、大手術という外部からの侵襲によって感情が抑圧された結果と見る頃が出来ます。私には少年時代にも離人感がありました。下校時ふと山を見たら生きた風景でなく絵に描いた景色のように見えたことあります。あれ!変だと思っただけですが。その頃秋の紅葉、私の故郷は熊本ですから、ハゼの紅葉が見事で畑の畔にもたれてしばらく見入っていたことがあります。あの体験もきっと離人感から来ていたと思います。では私の過去に何があったかと言えば、母親は家事や農作業にあまりに忙しくしていて、しかも、母親がいつもラジオで聞いている清水の次郎長の浪花節など聞いているので、次郎長の本を学校から借りてきて読んでいたら、「そんなもの読んだら不良になる」と叱られ読書の楽しみもなくなりました。そういうことが重なって私は家が貧しいことを知っていましたから、甘えることを辞めてしまったのです。それからずっと後になって自分の子どもがフォルマリン漬けになって小学校の理科室の標本棚にたのものと一緒に並んでいる夢を見たのです。そのフォルマリン漬けの子どもが回復したのは大学を定年退職して3年目だったでしょうか。今から10年前です。

そればかりでなく私には統合失調症的な夢もりました。小学4,5年だったと思いますが、私は空中を飛んでいます。下には茶色い液体が全体を覆ていて気味の悪い世界です。今思えばダリの絵に出てくるような世界でした。二度目に同じ夢を見て何という不思議な世界もあるものだ、もっとよく見たいと思って目覚めましたが、三度目はありませんでした。しかし、夢の中でここに降りたらきっと自分は死ぬに違いないと思いました。そして恐ろしい世界を見ったものだと驚きました。この夢は誰にも言いませんでしたが、後にこの離人症の世界を考えることになったのだと思います。もしかすると離人症の場合、自分と現実の間にどろりとした膜が張ってあるのかもしれません。イメージで離人症を説明しするとそういうことになります。まさに精神病と神経症の狭間にある精神的異常なのです。形而上的な自分は空中いて形而下的な世界を見ているのです。

夏目漱石は自分を見ているもうひとりの自分が居て、自分が形而下で、つまり現実でしていることを面白く文章で描写する能力があったので、『吾輩は猫である』という類まれな作品が生まれ、一躍有名人になりました。稀有な事例だとおもいます。漱石の場合、知性が高度に高く客観的に物事を見る力があったので、形而上的精神的自分が主体性を持っていましたので、『吾輩は猫である』ができたのです。一方、形而下的現実的自分に主体があって形而上的精神的な時分が頭の傍らで、「猫」のように「今こうしている、こうしてどうなるのだ」と意見を述べているとしたらどうでしょうか、疲れ果ててしまいます。漱石も、そして後の例もドストエフスキーの『二重人格』(原題は「二人行く人)という意味です)形而上的な精神的な自分が外へ出ているのです。離人症では、いつも自分ともう一人はくっついているところが、二人行く人と違います。いつももう一人の自分が上から見ていて困っていた方も夢分析を続けていたら次第に収まってきているので、夢の治癒力は大きいと思います。漱石は形而上的精神的自分と形而下的現実的自分を対比しながらその問題を小説の中で考えてきた思います。

(ここまで書いて苦しくなりかけ無くなりました。今日11月11日、ずいぶん苦しみましたがやっとパソコンを開き続きを書くことにしました。)

私の離人感の基礎は幼い時母親への甘えを控えたことにあるかもしれないと思います。甘えの感情の抑圧です。この問題が今私を苦しめています。

この間次のような事例も聞きましたので記しておきます。

ある中学生は海外に赴任していた両親とともに帰国してきました。その後お母さんが作ってくれるご飯がまるで砂をかむような味しかしないので困ったのですが、折角お母さんが作ってくれるご飯だから美味しいと言わざるを得ないと彼は言うのでした。本当の感情を隠して理性で対応する知的な青年の離人症でしょう。彼は海外のどこにいたか聞いていませんが、日本に帰国して日本語での感情の出し方もわからなくなって感情を失ったのだと思います。

感情を自由に出すことの大切さを離人症は教えてくれました。

これまでの精神医学は統合失調症と躁うつ病の研究に明け暮れ、漱石の精神的病の研究ももっぱら二つの視点からなされ、離人症という観点からは全くなされませんでした。残念なことです。これからもっと離人症についての研究が広まって欲しいと思います。

20191024 病状報告 手術は成功したが

手術は成功した。先のブログに書いたように皆さんに大変喜んでいただいた。しかし、私にとってはただならぬ事態が生じた。今食事が取れないのである。特に糖質に対して嘔吐が起こる。デザートに栗きんとんが出てきたが、一口舌にのせただけで嘔吐が起こった。糖質を見ると、見ただけで胃液の反応が起こり口に直結した胃から出てきて混ざり合うので嘔吐が起こるのである。また、嗅覚も味覚も消失してしまったようである。食べる生きがいが全くない。今は栄養剤補給でやっと命をつないでいる。これでどれくらい持つかわからない。もう死んだも同然という感じ。手術は成功したがたましいは死に瀕している。皆さんの期待に応えることはしたい。しかし、いつまでもつかわからない。

残念なのはこの私の食べられないことがほとんどの人にわかってもらえないことである。今まで離人症の人に何人かお会いして食事のことを聞いた。みんなまずいと言う。ある人はご飯を糊をかむようだと言った。感情が消失し味覚が消えてしまった世界がどんなものかほとんど研究されていないから、知られていない。夏目漱石も離人症だったから経験している筈だが書いてない。漱石の胃の痛みも味覚のないところにたくさん食べると気持ち悪くなることからきているのではなかろうか。私も今栄養剤もたくさん入れると具合が悪い。困ったことだ。

このような状況をご理解いただきたいと思う。

実際は死線を彷徨っている私です。

20191022 病状報告

愛知県がんセンターは東正面入り口から受付外来診療部門、放射線等検査部門、病棟と建物が分かれています。手術室は病棟の4階にありICUもその階にあります。

9月6日最初に入院した頭頚部外科病棟は東病棟の5階にあり、そこで先ず鼻から栄養を入れる管をつけられ、それに慣れるまで入院し、退院して諸検査を終え、手術を待ちました。PET検査というガン細胞に放射線の印をつけ細胞の集まり具合を見る検査があります。その検査はがんセンターとは別のセンターで、ここで早い段階で検査を受けておけば、良かったと思ったことでした。保険でやっても3万円くらいで済みます。

手術は私本人は手術台に猫のように丸まって横になり、軽い麻酔の注射をされたところまでは覚えていますがその後は何も覚えず、ICU で目を覚ましました。そこで五日間過ごしましたが、窮屈な生活で寝返りもうまくできません。ベッドは30度くらい傾いておりずり落ちるし寝返りもままならず、ずいぶんバタバタしました。夜中あまりバタバタするので一度だけそんなにすると中々上に行けませんよと叱られました。叱られたのはその時だけです。それからおとなしくなり我慢するようになったのですが、代わりに現各様の体験をするようになりました。看護師さんが首に手を添えていてくれるような経験とか、アラビアの宮殿に居るような情景をも見えました。このように苦しい経験にもかかわらず経過が良く6日のところ5日で出ることが出来ました。次のところは個室で北側の景色の良い部屋で特別待遇かと思ったほどです。ここは2時間おきに諸検査を行うので個室でないと具合が悪いのです。ここも経過が良く3日で今の一般病棟、ベージュのカーテンで仕切られた外が見えない部屋で過ごしています。診断治療は医師、病気を治すのは看護と言って良いほど看護が独立性を持っているように思いました。私はこれまでに叱られたのは1回だけで、看護師さんに不快な思いをしたことはありません。何々をしますというインフォームドコンセントがきちんと守られています。臨床心理士もこの辺はしっかりと学ばなばならないと思いました。看護師は女性が多いのですが、女性特有のぎすぎすしたものは感じません。私の担当は男性が多いのですが、男女比は6:20だそうで、5人に一人男性がいると女性もこんなに落ち着くのかと感心しています。

また、看護の世界にもITが入っています。体重、体温、血圧、痛み、患者の訴えすべてパソコンに記録さ仕事の引継ぎもそれできちんとなされているのです。それに比べると死因李臨床は凄く遅れている云って良いでしょう。

クライアントについて調べるべきところ、家庭の状況、近隣との関係など複雑ですが、抑えるべきところは抑えて、次の人が見たときにある程度分かるようにしておくべきだと思いました。看護大学が出来、大学院もできて看護学も独立性が高まってきました。それに比べると、臨床心理士の世界は研究においても、仕事の内容の分析という観点から見てもはるかに遅れていると言えるのでは二でしょうか。

20191022 病状報告

 ベージュ色のカーテンで囲まれた中にいると外の世界は見えない。秋晴れの青い空が広がっていますとメールに書いてあっても全く分からない。わからないでもいいような狭い心の中に生きています。皆さんからメールが来るのが楽しみです。こんな具合ですから、具合はいかがですかと質問だけ来るとまた、答えるのがむつかしいなとなって困ります。

 メールの中で飛び切りびっくりしたものがありました。それはある人の夢で、お帰りなさいと題してありました。私の手術が成功して一応生きられることになったことを喜んでの夢です。かなり大掛かりな復活祭の夢で、太古の遺跡のようなところ、祭壇があってそこに先生が帰還され、神職のような人から、神職の人が使うのか遺跡に伝わるものか神器みたいなものを私が受け取った。それから祭壇を降りて、みんなの中に入ると宴会が始まり、サンバのような勢いでてんやわんやの大騒ぎになったという夢です。連想として、キリストの復活祭、イースターを連想するとありました。

 もう退院前12月22日、退院と誕生日祝いを計画してあるので、そのことを夢に見られたのかもしれません。このように喜んでいただけると、今の私の地獄の食事も食べて早く元気にならなければと思います。

 しかし、この夢から思うことは、私は今まで母性的であると思っていたのに、実際は、特に女子会の方々にとっては父親的な存在になっていたらしいと云ことです。母親の夢は殆ど見ないので、母親を客観化できず、同一化していることは間違いないのですが、父親の夢もあまり見ませんから、父親も私の中に生きているのでしょう。父親は、熊本で言う「肥後もっこす」でした。自分が正しいと思うことは曲げない性格です。司馬遼太郎はそれを評して「一人一国」と言っています。ロジャーズにもなじまず、ユングにも河合先生とも違いを明らかにしようとする自分はやはり一人一国、「もっこす」だと思います。その独立的なところが父親的になって、皆さんの心の中に印象付けられているのでしょう。

 私は聖者ではなく普通の男です。でも、旧約聖書の創世記の夢解きヨセフや出エジプト記のモーセを思い起こすと自分もそうありたいと思い、とても身近に感じるのです。そういうところは何か普通ではないのでしょう。今回の病は私にとっては入りいろなことを省みるビッグチャンスでした。

20191021 病状報告

 パソコンのキーボードの操作を見ると少し戻ってきたのかなと思った。

 手術を終わった日の翌日を一日目をすると今日で11日、ICU出たのが14日で普通より一日早かったらしい。個室に3日いた。この個室では大体2時間おきに各種の想定を行うので、個室に入る必要があるのだ。ここも3日で終わり、一般病棟で過ごしている。ここでは入るとすぐにリハビリの人が来て、先ず痰の吐き方を教えてくれ、それは今も大変役になっている。歩数計を首にかけられ、1000歩は銅メダル、2000歩は銀メダル、3000歩は金メダルと教えられた。術後の運動はとても大事だと以前から聞いていたので、翌日には暇に任せて歩き、7000歩も歩いた。東病棟の廊下を歩く、一周250歩くらい、1000歩くらいわけないものだ。これなら10000歩でも行けると思っていた矢先、明日から食事が出ると言われ喜んだものの、食べてみるとまずい。ミキサー食だから味がまずいのは当たり前だが、私の口の中が大手術という大怪我によってとんでもないダメージを受けていた。味覚が無いのである。それに加えて、唾液の変な臭気が加わって食べられたものではない。でも、これもリハビリだと思って完食した。これが間違いだった。嫌なものには嫌と反応するのが人間的なのだ。最初の食事は地獄の食事だと思った。これを食べられるようにならなければ、退院後生きていけないのだ。どうしたらよいか困った。困り抜いて只管寝ているところに新舞子メンタルクリニックの永田文隆先生がお出でになって色々とはなしをしているといろんなことを思いつくから不思議だ。永田先生独特の間合い、言葉の挟み方があって、私はもう一度地獄の食事に挑戦する気を起こした。これが永田先生の心理療法の優れたところだと感心した。歩きを再開して身体を動かし、身体が自分を取り戻すのを待つ、そういう気分になり、李ハビの再開に向かった。それからもいろいろなことがあって面白いのだがこれはまたの機会に書くことにする。

20191019 病状報告

久しく病状報告をしていないことを指摘され、応援してくださっている皆様に大変失礼をしているのに気づきました。沢山の方々お見舞いをいただき励ましのお言葉をいただきましてやっとここまで来ました。今パソコンに向かったものの、キーボードの操作が間違いばかりで苦労しているのが現状です。

手術は見事に成功し、私は命を取り留めることが出来ました。多分もう少し我慢していたら今頃はお葬式も済んでいたのではないかと思います。今はリハビリに一所懸命です。間もなく元気になって月末ごろには退院し、もう少し益しなご報告ができるのではないかと思います。とにかく手術が成功し元気になりつつあることをお伝えします。

応援ありがとうございます。

西村洲衞男

20191008 ご先祖様にお助けください

いよいよ明日は10時間に及ぶ大手術を受けることになった。言わば、良く切れる日本刀でバッサリ切られその傷から回復するようなことを経験しなければならない。ヤクザの本当の喧嘩、実際の戦争の話には大傷を負うシーンが出てくるけれどそれを自分は明日経験しなければならない。主治医の先生は82歳の高齢では抗がん剤は使えないし、大手術しか選択肢が無いと言われる。私はその大手術に耐える覚悟をしなければならない。この時になって何か大いなるもの、人間の力を超える大いなるものにすがりたい気持ちになった。

私は宗教的なものを大切にしてきた。無量寿、永遠のいのち、無量光、つまり観自在ということに理解を深めた。宗教的なものの中には無限のエネルギーがあるからそれを使って生きてきて今も元気である。しかし、仏にすがる、仏様に助けてもらうことを考えて来なかった。今ここに至って私は神様、仏様、助けてくださいと叫ばなくてはならなくなった。神様も仏さまもなじみぶかいが、ご先祖様というのが日本人の心の根底にあるのではなかろうか。ご先祖様というのは我が家の先祖代々ということも含むが、生き物の歴史をさかのぼれば地球に生き物が誕生して以来のいのちを受け継いでいるいのちではないか。それを人々は神様、仏様と崇めてきた。その根底にあるものはご先祖様のたましいではないか。そう思い詰めてご先祖様お助けください。私も頑張りますという気持ちになった。神は自ら助けるものを助ける。私も頑張ります。

20191007 手術の説明があった

 本日3時から主治医の手術の説明があった。

 がんは喉頭と食道の2ヵ所にあり、それも発見が遅れた。一つ一つの手術は手慣れたものであるけれど、同時に2ヵ所というのはむつかしい。しかも高齢である。喉頭と食道の専門家が協力して手術する。大変危険な手術で、外に方法がないのでやるしかない、やらなかったら寿命は数か月ではないか。栄養剤しか入って行かないのだから。手術は危険な賭けであるがやるしかないと言われた。

 しかも胃と口を直結するすることが出来れば良いが、胃の長さが足りなければ、腸を切ってつながなければならない。そのつなぎがうまくできれば良いが、そこに炎症が起きたりしたらつなぎ合わせた胃や喉が問題を起こす。それに10時間にも及ぶ手術に私の体力と精神力が耐えられるなら私が回復するという奇跡が起こる可能性がある。医師の技術を私のたましいの力が協力して命を永らえてくれることを祈るばかりである。私が心の中で作った生存会という新興宗教は私もそれほど信じきれない、そんなものは頼りにならない。昔からあるご先祖様、それは中身はたましいであり、とりあえずご先祖様にお願いして助けていただきたいと思います。

20191006 病状報告

 今日お昼過ぎ訃報のメールを受け取った。私の義兄が100歳と7ヶ月で亡くなったのだ。昨年までは古文書を読む会に市中まで出かけていたのに、最近状態が思わしくなかったので、心配していたがやはり彼岸へ行ってしまった。私の姉は96歳でまだ元気である。姪は近くの親戚では私が長老になるので、100歳まで生きてほしいというが、9日には長時間に及ぶ手術を受けなければならない。しかし、100歳まで生きてほしいという言葉が励ましになる。

 今日は遠方からのお見舞客があった。無口な方で声を失った私は筆談しかできないが、二人だと、私の心に話したいことが心に浮かぶ。結局A 4裏表に2枚描いて、1時間くらい話が出来た。お互い満足して終わった。次の見舞客はお医者さんだった。たった5分の面会のため遠方からお出でいただいた。先生の優しいお顔に接すると心が和むので不思議だ。精神科のお医者様でこんな方は珍しいと思う。先生は帰り際に手紙を置いて行かれた。心のこもった温かい内容で、私の心が温かくなった。

 夕方に6人のグループのお見舞いがあった。いつも親しく接している方々だが、気管切開を受けて話が出来なくなった私に接して皆さんは何と言葉を掛けたらよいのか戸惑われたと思う。皆さんは言葉を発しないし、私も筆談しかできない。私が書く下手な字をソファーに散らばった人に即座にわかってもらうのはむつかしい。会話はうまくいかない。それでも30分、一人当たり5分、でもそれ以上の温かいお顔に30分も接して良かった。

 ありがとうございました。 明日はいよいよ手術の説明があります。よく話を聞いてプロセスに任せます。心もプロセスですから。あと手術の成功を祈るばかりです。 

 

20191005 病状報告
 このところ寝てばかりいたら、今日は朝ごはんのエネーボを持ってきてあって釣ってあったのでもう寝ながら補給を受けられるのかと思っていたら寝ていたから持って来ただけで何もしていなかったのである。結局10時半から朝ごはんとなった。そしてさっき少し運動しなさいと言われ病棟を一巡してパソコンの前に座った。
 2日夜に誤嚥を起こし危うく死ぬところであった。その時の酸素ボンベが今もそばにある。このままでは夜いつ誤嚥が起こって死ぬかもしれないので、3日午後に急遽気道の切開手術を行った。先生は午後1時に家族集合になっていたが手術の説明があったのは午後四時であった。前の手術が長引いたのである。説明のところに行くとホワイトボードに絵が描いてあったっこを切ってカニューレを入れます。すると声が出なくなりますと説明があり、その代わり誤嚥による死の可能性は無くなりますとのこと、そこで手術同意書に署名した。

 その説明が終わったとき永田先生が来てくださってかろうじて声のあるうちにご挨拶が出来てうれしかった。手術室の看護婦さんに手を引かれ、家族に別れを告げて手術室に入った。ベッドは狭いものだが、付き添いの看護婦さんお手は温かった。痛い時に握ってくださいと言われ何度か握った。局所麻酔のカニューレ挿入だった。終わって起きる段になって多量の唾が溢れ出た。普通より大量だったらしく器をさがしておられた。部屋を出てからも大量に出て苦しんだ。気管切開で行は出来ているのもの、吐くと喉の下に空いた穴からも血の混じった痰が飛び出していく。世話をする看護師さんがビニールの前掛けを掛けている理由がやっとわかった。
 喉のカニューレは喉との隙間を防ぐために風船を膨らませて入れてあり、喉は膨張していたい。咳は出てくる。唾はあふれるように出てくるその始末に最初の夜は苦労した。
 痛み止めと眠剤のお陰で翌日午前中良く眠った。昨夜も良く眠って、今日も眠った居たら9日の手術の単に少し運動しなさいと言われ、5階病棟一巡してきた。こんなことでも運動になると思った。少し元気が出てパソコンに向かってこれを書いた。
 気道切開翌日は何もする気が無かった。精神科の小森先生がお出でになったので、「やっと生きています」と答えた。自分から生きる意欲は乏しい。やっと生きているそれが本音だ。
 そういうところに、気分はどうですか?とメールが来るとめちゃくちゃ面倒くさくなる
 今もやっと生きている。手術を控えているからとにかく体力気力をつけなさいという看護師の励まし、これで自分が動いている。とにかく9日の手術は8時間くらいかかるらしい、それぞれの専門医た担当されるのではないか、がんの除去、リンパ節のがんの除去、糸口との接合など、かなりの時間がかかるらしい。
 でも、もの手術中は私は全身麻酔でそのままICUに入り、そこで目覚めるのではなかろうか。この後はきっと切った傷口の痛さであろう、そしてICUでも身体拘束が長いからその精神的な苦しみも長いかもしれない。気管切開の時も拘束されたがせいぜい20分くらいだったから大したことはなかった
 気管切開の時は何しろむせて生きたここといはしなかった。そしてカニューレとい不思議なものに生かされた状態に変わり、生きているのでなく行かされている状態になったことは間違いない。

20191002 幼少期から思い出の自分への手紙

 私の病気を発表して、面接を中断せざるを得なかった方に、夢の記録の継続と幼少期の嫌な思い出、人に言えないような思い出を書くことを自分への手紙として書いてくださいとお願いしました。
  しかし、入院しているうちに少し考えが変わりました。夢の記録はそのままですが、幼少期の記憶は嫌な、恥ずかしいことばかりでなく、幼少期に興味を持っていたこと目についたこと、忘れられないで残っていることはみんな書いてください。私はどうも幼少期の良い体験を見落としていました。実はその方がもっと大切なことかもしれません。それは自分の興味の方向や関心の向け方を決定づけているかもしれないのです。大人の自分を支える幼少期の体験と言えるものだと思います。
 般若心経は今目の前にあるもの見るも聞くものその因果関係も自分にとっては何も関係ないけれど、過去の経験の真実は虚しくないというのです。過去の経験の真実と言えば、これまでの人生で経験したことのすべてですが、中でも幼少期経験、忘れられない経験が自分を方向付け形作っているのだろうと思います。過去の経験の真実は自分自身にとって虚しくない、それこそ自分の心の基礎なのです。皆さん自分の心の底をしっかり見てください。

20191002 私の心と体の不調和

 昨日誤飲が起こったのはとっさのことで痰の掃き出し動作と気管支の締まりが自動的に連動しなかったために起こった。今鼻からの鼻汁は自然に食道の方に流れているが、その時の痰は喉からの痰で、吐き出されるべきものが気管支に入ってしまったのである。これで死ぬかと思うほどで、何としても生きなければならないと思った。
 健康な人は、飲み込むときには気管支が締まり、息を吸い込むときは気管支が開く。痰を吐くときには誤飲が起こらないように体が反射的に自然に動く。病気になった自分はその自然な反射的反応が出来ていない。
病人モードになった私の身体はガタガタに壊れているのかもしれないと思った。
 私は30年前、50代半ばから宗教的な目覚めが起こり内的エネルギーは使えば使うほど内から湧き出てくると思っていた。つまり無量寿(無限のいのち)の自覚であった。だから精神的にはいつもフル回転でまるで燃料補給なしに活動する機械になっていた。そういう精神的な体制に対して30年近くなって体が悲鳴を上げたのだ、もうこれ以上無限のエネルギーに支えられている精神機能を支えることはできないと身体が悲鳴を上げバランスを崩し、細胞レベルで退行し、免疫機能で排出されるべきがん細胞が増殖し始め、食道がんになったのだ。
 ここ1年くらいだろうか空腹感が無かった。排便もここ半年ほど便秘で困った。腸の動きも自然ではない。
 身体の自然を取り戻すこと、それが今回の病気で何よりも大切なことだと思っている。

20190929 病状報告

がんになって思ったこと

私はがん発症の前は歳に似合わず元気だった。ところが今毎日家でエネーボという栄養剤を補給して暮らしていて、少しのことをしても疲れる。私は表面活動的だったのだが私のたましいのレベルではとても疲れていたと思う。

どれくらい疲れていたのか。がんは生きながら体が腐って行く病気だと思う。身体を構成する高級な細胞が働かなくなり代わりに免疫機能で排除されるはずの低級な細胞が増殖し身体が壊れ出血し次第に退化していく病気ではないかと思う。

私は元々怠け者だった。だから、人並みに仕事をしようとして頑張って生きてきた。特に師匠が無くなってからこれで自由に自分の発言ができると思ってからできる限り頑張ってきた。毎年学会で事例発表をし、自主シンポジュウムを開き、臨床心理士が当面すべき問題を考えてきた。それを支えるだけの活動性が私にはあると思っていたが、私のたましいはかなり疲労していたのであろう。精神的に対抗できないから体の細胞レベルで退行し、ついにがん細胞レベルにまで至ったということではないか。

私は生来怠け者と思っていたのだが、いつの間にか超真面目人間になっていたようである。これが気づいたことの一つである。

もう一つは、私はきょうだい6人の中で一番出来が悪かった。母親は私の父兄会に行きたくないと言った。いつも喧嘩し、成績は悪いからだ。すぐ上の兄は健康優良児で成績は抜群に良かった。私が出会った相談事例でも上の子が優等生だとその下は劣等生になる確率がたかい。私はなるべくして劣等生になった。中学から勉強して区域外の難しい高校に入ったが入学時は150番くらい、卒業時でも50番くらい。やっと駅弁大学の教育学部に入った。でも教員になるのは嫌で先輩に倣って京大大学院を受験したらまぐれで入った。自分が取り組みやすい一番簡単な心理学実験、確率学習をテーマに選んで書いた論文が評価され大学院に入れたらしい。当時京大の大学院入試は論文の評価が50%でそれが幸いしたらしい。京大に入って気づいたのは学力差でであった。到底頭ではかなわない。何とか卒業すべく遊戯療法というあまり学問にもならないテーマを選んで、何とか大学院を出た。その後、日本リサーチセンターというマーケットリサーチの会社に勤めたが会社員は自分には向かないと思った。ここでも劣等生であった。

先輩の招きでやっと京都市カウンセリングセンターに就職してカウンセラーになったけれど、ここでも劣等生であった。だから、河合隼雄先生が帰国されカウンセリングセンターの嘱託となられたので、河合先生についていくことにした。先生は何となく私を大事にされそれとなく自分の方とのことを見せられた。先生は弟子を作ることをされなかったが、私は弟子になろうとして生きてきた。『師曰く』という本を書きたいくらいである。

私は劣等生でずっと師の下にいるものと思って生きてきた。

ところが今回がんになって、それをみんなに告知すると、みんなが動揺した。私が居なくなったらどうしたらよいのか?

今回の発病でわかったことは私が周りの多くの人に師として頼りにされていることだった。こんな自分が「師」なんて思いもかけないことで私は正直困惑している。私はずっと先輩の弟子ということで生きて生きたが、その先輩に学ぶ姿勢がいつの間にか師への道になっていたようだ。豪いことになった。

私は今病人である。この病の治療はひどい苦しみを伴うが、人並みにこの苦しみを生きて、また、皆さんと楽しい時を過ごしたと思っています。