外向と内向の違いを超えて

最近になってやっと外向的な人の夢と内向的な人の夢の違いがあるらしいことに気が付いた。

第一河合隼雄先生は教育分析をするのに外向的な人はある時から樋口和彦先生に依頼されたようだ。初めははじめは外向的な人も受け入れておられ区別はなかったように思うが、それ以後は内向的な人しか受け入れられなかったのではなかろうか。河合隼雄先生はすごく内向的な性格だったから分析を進めているうちに違いが判って外向的な性格の人は外向型の樋口先生に依頼されたのだろうと思う。

外向型の人は心の目が外に向いており、内向型の人は心の内に目が向いている。私は今パソコンのキーボードに向かっているが、ブラインドタッチが中々難しい。私の意識とキーボードが直結していないのだ。これがスムーズにできる人は外向的と思っていいのではないか。中々できにくい人は内向的な人ではなかろうか。

外向的な人はコラージュ療法が好きで、内向的な人は箱庭療法が好きだ。コラージュ療法は今現在発行されている雑誌に掲載されている写真資料を使う。大体広告に使われているもので、人々にこれから生きるための夢を提供している。外向的な人にとって夢とは将来のビジョンである。外向的な人にとっての夢とは現実に意味の在るもの、大切なものを意味する。夜眠っている間に見る夢は確かに見たイメージであるが、その夢が示唆している隠れた意味には目が向きにくい。それよりも将来の希望、実現したいものに意味がある。

一方内向的な人は箱庭療法が好きである。箱庭療法の材料は大体過去から在るもの、今在るものである。意味のないものつまらないもの、流木や石ころも含まれている。それらには将来の理想はない。過去の残骸である。コラージュ療法の材料にはこのような内容が見出しにくい。

このように見ると外向的な人は未来志向であり、内向的な人は過去志向ではないか。

夢分析を行い夢の報告を求めると、沢山の夢を報告する人と少ない人に分かれる。どれくらい沢山かというと、毎日のように夢を見て記録し、1ヶ月でA4判の用紙に数ページになる人がある。読み上げてもらうと20分かかることがある。意味がぴんと来ない夢を多く聞かされると眠くなる。「先生眠そうですね」と言われることもあり、大変申し訳ない。連想を聞きながら内容を検討していると現実とのつながりが出てきて目がさえきて、夢はこんなことを示唆しているとわかる。

一方、内向的な人は夢の数が少ない。一ヶ月ほどで一つか二つという人もある。毎日の要請される仕事にかまけていると夢が何か月もないこともある。しかし、報告される夢は意味深い。夢が示唆するものと現実の隔たりが大きく、この先どう進むだろうと思い惑う。

私自身は超内向的だと思うが、外向的な人が周りに多い。分析を受けられる人にも外向的な人が多い。

外向・内向という性格と社交性はまた別である。外向的で社交性のある性格の典型は自己顕示の強いヒステリー性格である。今はこのヒステリー性格の人の時代で、テレビを見ているとそういう人があふれている。でも外向的で社交性が乏しく自己顕示的でない人は大勢いる。私はそういう人たちとうまく行っていると思う。田舎育ちで社会を知らない私が初めて社会というものを自分一人で体験したのは東京で職についたときだった。新宿西口にはバラックのお店がたくさんあり、露地を通り抜けると大きなホテルがあった。そこの最上階のレストランに入り、一番珍しい安価な焼きチーズを頼んだ。それは今思えばゴーダチーズを焼いただけのもので美味しかった。今もよく食べている。私はこうして都会の良さを知った。行動は外向的になって、外向的な人と付き合うようになったと思う。

内向的で社交性のない人とは難しい。話題を何にしたらよいかわからない。話題を作るために昔から短歌や俳句の世界があり、茶道の世界があったと思う。今では茶道はほとんど女性の世界になっているけれど昔は男の社交の世界だった。花を生け、飾り物を掛け、おいしい食べ物を用意し、着物を改めてお茶を飲んだ。そこに「おもてなし」があったのだ。そこは主客未分化の世界で内向も外向もない。対立のない気楽なところだったはずである。

外向性とか内向性という心の世界の下にたましいという目に見えないいのちの世界がある。短歌や俳句、茶道や華道、それらはたましいの世界にかかわっている。この世界に入っていると出会いが良くなり人生は幸せになるはずである。最近ある人のお父様が亡くなられた。その方は俳句の世界で名の知れた方で、最後に「幸せだった、ありがとう」と言い残して亡くなられたということだった。たましいにかかわって生きると幸せな出会いがあるのだと思う。私は夢分析や箱庭の世界を通じてたましいにかかわっている。夢分析や箱庭療法を通じてたましいにかかわり、人々と主に生きて行きたいと思っている。

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