心の問題の解決法ーフェルマーの最終定理を読んで

人に勧められて『フェルマーの最終定理』を読んだ。数学上のことはわからないが、フェルマーの最終定理の証明の歴史はすごく面白い。数学は心理学と全くかけ離れていると多くの人が思っている。しかし、数学も心の中から出てくるものである。数は目に見える現実には存在しない。心の中から生み出されてくる理論である。数学も文学も色々なデザインもすべて心の中から出てくるものという点では変わりがない。デザインも美しいが、論理的にすっきり証明された数学も美しい。『フェルマーの最終定理』にも美しいという言葉がしばしば出てくる。多分こうであろうと言うことは「予想」であって、それは証明されないと確かな意味が無い。数学は元々空中楼閣であるけれど、論理的に確かなものの上にあると、例え空中楼閣であっても、確かなものの上に存在し安心して生きることが出来る。
 私たちの心理学では「多分こうであろう」というところで仕事をしていて、こうだということは決してないけれど、突き詰めて悩みを深めているとある境地に達し、悩みから抜けることができて、生きるのが楽しくなる。『フェルマーの最終定理』はその当たりの面白さを教えてくれる。

 臨床心理士は断然女性が多いけれど、女性の数学者はめずらしい。抽象性の高い美しい数学に魅せられたソフィー・ジェルマンは部分的にフェルマーの定理を証明した。そして、当時最も優れた数学者と言われていたガウスに男性と偽って手紙を書いていた。それはガウスに認められ、彼女は喜んだ。
 当時、ナポレオンがドイツを侵略していたので、ガウスに危害が及ばないようフランス軍の指揮官に彼女は手紙を書いてガウスを守った。後に、あなたが命拾いをしたのはソフィー・ジェルマンのお陰だと知らされ、ガウスは非常に驚いた。ジェルマンが女性であったことがわかって、喜びに満ちた手掻を書いた。その後も文通が続いたが、ガウスが応用数学に転向すると、二人の関係は終わり、ソフィー・ジェルマンも数学を捨ててしまった。
純粋数学をこよなく愛した女性、ソフィー・ジェルマンが、尊敬するガウスが応用数学に転向し、数論という純粋数学を離れてしまった途端に、数学をあっさりと捨ててしまったということに私は驚いた。やはり彼女にとっては尊敬し愛する人あっての数学であったのだ。愛する人が他所を向いてしまうと、女性は恋人を失ったように意気消沈してしまうのである。『未来のイヴ』(リラダン)に書かれている「女性は好きな男性の考えに従う」という指摘はソフィー・ジェルマンのような一筋に生きる女性にとっては正しいのではないか。
 例え証明されたにしろ何の役にも立たないフェルマーの定理にガウスはほとんど関心を示さず、応用数学に向かったというところも印象的だった。ガウスの誤差の研究から誤差分布(ガウス曲線)、即ち、正規分布が発見され、心理統計はそれによって大きな利益を被ることになった。臨床心理士を目指す女性は心理統計を学ばなければならないので、多くの人が困り果てている。しかし、純粋数学の美しさに魅せられたソフィー・ジェルマンでも心理統計には嫌気がさすかも知れないと思う。理屈もわからず数式を当てはめるだけの操作だから。統計資料をパソコンに打ち込んで実行キーをタップすればたちどころに結果が出てくるのだから、それは面白くないに決まっている。

 前置きが長くなったけれど、フェルマーの最終定理を証明したアンドリュー・ワイルズは次のように言っている。
 「新しいアイディアにたどりつくためには、長時間とてつもない集中力で問題に向かわなければならない。その問題以外のことを考えてはいけない。ただそれだけのことを考えるのです。それから集中力を解く。すると、ふっとリラックスした瞬間が訪れます。その時潜在意識が働いて、新しい洞察が得られるのです。」
 これと全く同じことが数学者ポアンカレの『科学と方法』の「数学上の発見」のところに書いている。そして、「無意識は意識より賢い」と言っている。それは1908年のことで、フロイトが『夢判断』を発表し、無意識は意識下にあって、むしろ災いを生むものと見做す考えが世間を席巻していた時代で、ポアンカレのこの考えはまったく注目されなかった。今もそれは変わっていない。

 50年以上の心理臨床経験の結果私がたどり着いた心理療法の世界は無意識だのみの方法である。人が直面する問題はすべて無意識が拓いてくれると確信している。
フロイトの世界観によると無意識は悪いイメージになるので、河合先生に従って「たましい」が開いてくれるということにする。
 たましいは私たちの心の中に生きるご先祖様の霊ともつながりがあり、人間の本能のようなものであると私は考えている。それは動物的な衝動でもあり、人類の発生以来受け継がれてきている行動パターンであろうと思う。人はたましいや本能に煩わされず、自由に生きることができると考えるが、たましいを抑圧しているときは本能に惑わされ、本能を抑圧しているときはたましいに惑わされているのではないか。しょせんたましいや本能から逃れることはできない。悩みは一生つきまとう。
 心理臨床家としての私は、人の本能(たましい)が困難を認識し、その解決をなんとか見つけ出してくれることを期待する。そのために心の深いところから出てくるイメージ、つまり、夢や箱庭に現れてくるものに期待する。
 そして、ワイルズが言うように、もの凄い集中力で問題を考え続ける。そしてある時、リラックスしたとき解決が浮かび上がってくる。もの凄い集中力で問題を考え続けるということは悩みをとことん深めるということに他ならない。
 問題の解決にはそれが一番早道である。悩みなしには問題は乗り越えられないらしい。悩むと解決は向こうからやってくる。このように言うと夢や箱庭が解決の答えをあたえてくれると期待するだろう。しかし、夢や箱庭に答えは出てこない。
 夢や箱庭に現れるイメージは心の深層に動いている本能(たましい)の反映で、答えそのものではない。
 深層の心もプロセスで、常に動いている。その動きに法っていると出会いが良くなる。自分の深層の心のプロセスに法ると自分にふさわしい出会いをするようになる。自分を外さない出会いを選ぶようになって、自分にとって良い出会いをする。その良い出会いで人生が拓かれるのである。河合先生は遠藤周作との対談で、「クライアントはこちらの思いもつかない解決をするので驚かされる」と言っていた。それを私なりに説明すると以上のようなことで、自分の深層に触れていると良い出会いをするようになり、それによって人生が拓かれるということである。本能(たましい)が導いてくれる良い出会いをするには、意識の側の慎重な観察、疑い深い態度も必要で、その慎重な観察が、疑いの果てに信じるということにつながるのだろうと思う。人生の選択の確かな証明は一生かかるのではなかろうか。数学のような美しさはないが、自分らしく生きているという清々しさはある。清々しい人生でありたい。