カウンセラーの特性

今年も小倉セミナーを開きます。小倉先生は子どもの精神科医で、アメリカでも児童精神医学が始まった頃メニンガークリニックで研修を受けられました。アメリカで臨床活動をするうちに、幼児期の子どもの問題が多いことに気づいて、3歳児検診を始められ、それは全米に広がり、やがて日本にも広がりました。今では1歳半検診が広く行われるようになっています。臨床心理士の方で3歳時検診などに携わった方は多いのではないでしょうか。そういう方は小倉先生が開かれた道を歩んでおられるのです。
 先生は昨年から世田谷で乳幼児のデイケアを始められました。これは検診とは違い、精神科医や保育士や臨床心理士が子どもと共に時間を過ごすことによって、子どもの成長を援助しようとする試みです。乳幼児期にかかわると目に見えて変化が現れるそうです。乳幼児のデイケアはいずれ社会に認知され広まって行くことでしょう。
 小倉先生のユニークな試みは、個人個人がばらばらになった現代社会では、以前は年上の人から直接教えられた子育てに代わって、社会に受け入れられていくのではないでしょうか。
 小倉先生の関心は一貫して子どもに向いているように思います。思春期や親の問題でも乳幼児期に遡って考えられますし、また、患者さんも自然に幼いころのことを先生に話をされるようです。それはアメリカでも日本でも同じでした。
 小倉先生には乳幼児期の頃の思い出を引き出す特別の素質がおありのようです。その素質の基は、先生の自伝によると、乳幼児期に母乳の出が悪かったために行われたもらい乳の経験にあると思います。お向かいの家に同じ頃に子どもが生まれて、そのお母さんの乳がよく出たのでもらい乳して育ったとのことです。そのもらい乳したお母さんが中学の頃亡くなられた時、人に教えられてもらい乳していたことわかり、それまでお向かいの友達のお母さんに抱いていた不思議な感覚が理解できたと書いてありました。
 もらい乳して育つと、離乳した後、そのお母さんと別れて生活しなければなりません。乳児期の乳母との離別が先生のたましいに深い影を落としたのではないでしょうか。その影を抱いた先生の人格が幼児期に苦しい思いをした人のたましいを揺り動かし、何となく小倉先生には遠い思い出を話したくなるのではないでしょうか。
 これに関連して思い起こすのは弘中正美先生のことです。弘中先生は66歳になって大学を退職するに当たり『遊戯療法と箱庭療法をめぐって』(2014 誠信書房)を出版されました。この本には先生の小学校の頃お兄さんと一緒に遊んだ空想遊びのことが書いてあります。お兄さんと二人で夢中になって遊んだとありました。この経験はハンス・ツリガーの『遊びの治癒力』(1978 黎明書房)に紹介されているスイスの村の子どもたちの遊びとそっくりだったと書いてあります。弘中先生はこのお兄さんと一緒になさった遊びの経験が人格の基礎になって遊戯療法の世界に生きられ、遊戯療法の第一の理論家になられました。現在は日本箱庭療法学会の理事長をしておられます。
 弘中先生がお兄さんとなさった空想遊びは、今で言うRPGではないでしょうか。お兄さんは法律家になられ、マスコミに不当に叩かれ世の中から悪者視された人の弁護をされ、名をはせられました。このことから考えると、悪者に不当にいじめられる国を守るために、一方的に国を襲ってくる悪者をやっつける遊びをしておられたのではないでしょうか。弱みのあるものが、そこにつけ込まれて責められる事態を何とか切り抜けるというテーマをご兄弟は生きておられたのでしょう。その後悪者と直接向き合い戦う役目をされたお兄さんは弁護士になられました。もしそうなら、弟の正美先生は戦いの中でどんな立場だったのでしょか。私は次のように考えました。
 弘中先生は、これまでに遊戯療法のためのプレイルームを3つも作られました。自分の設計で3つもプレイルームを作った人はいないと、そのことはご著書には書いてありませんが、誇りを持っていらっしゃいます。ご著書を読むと先生が作られたプレイルームが特異であることがよくわかります。特に3つ目の明治大学の相談室のプレイルームは御茶ノ水キャンパスの高層階にあって、そこにはバケツで水を流せるような砂場が設けてあり、天上からは子どもがぶら下がって遊べる綱が取り付けてあります。おもちゃ棚も作り付けのゆったりしたものです。ザンブと水を流せる砂場を作るには大学の事務長さんも、それを請け負った建設会社も頭を悩まされただろうと想像します。先生の退職記念のパーティーには事務長さんが招待されていました。普通そんなことはないと思うのですが、きっと弘中先生のプレイルームにかける情熱が多くの人を動かしたからだと思います。
このことから考えると、弘中先生は遊戯療法そのものよりも、遊戯療法が行われる場の設営に情熱を傾けられたのだと思うのです。
 先生とお兄さんは空想遊びで悪者を退治する戦争の遊びをしておられたとすると、お兄さんは直接的に向かい合う戦闘隊の役割をされ、先生は戦闘を支援する後方の兵站の役割を担っておられたのではないでしょうか。
 軍隊で兵站の役割はすごく重要です。弾薬の補給だけでなく、食料、燃料、衣服、医療などの補給を十分にしなければ戦争はできません。太平洋戦争で日本軍は戦艦大和や武蔵、隼戦闘機などその当時としては一流のものを作ることができましたが、兵站を重視しなかったから負けたと言っても良いくらいだと思います。皆さんも戦争の話といえば、何も食べるもののない飢餓状態と重い荷物を背負った苦しい行軍の話を聞いておられると思います。日本軍は強かったけれど食料もその輸送手段も乏しかったのです。
 弘中先生の主張の一つは遊びの場であるプレイルームをもっとしっかり考えろということではないでしょうか。作られたゲームの遊びではない、本当の自由な空想に基づいた遊びの場を広げていくことが大切だということです。それにはプレイルームが必要なのです。今スクールカウンセリングが小学校へ広がっていますが、プレイルームの必要性を感じている臨床心理士がどれくらいいるでしょうか。たましいを育てる遊びの場としてプレイルームや箱庭が必要なのです。その発想の原点はお兄さんとの遊びの中でできたのでしょう。
 先生は退職後、新宿御苑の近くに「弘中研究室」を作られ、そこが第4の遊び場として発展しつつあります。今後が楽しみです。
 小倉先生のたましいの原点は離乳の後の乳母との離別でした。この離別という孤独の体験も重要だと思います。先生の自伝によると自我体験-自分は自分であり、世界の中に位置づけられているという体験で、自意識の強い人に生じます-は6歳の時です。普通は小学校高学年だと思いますが、6歳は早すぎます。それは乳離れの後の寂しさが基になっているに違いありません。児童養護施設で育つ子どもたちは「自分は自分で生きなければならない」と早く目覚めます。早く目覚めるけれどわがままを言う愛着経験が少ないことがあるので対人関係でおとなしい傾向があります。その点で見ると、小倉先生はものすごく強いのです。家庭内暴力が流行った頃、「先生は暴力的な男の子にはどう対処されるのですか」と誰かが聞いた時、先生は右腕のげんこつを誇示して、「喧嘩では負けません」と言われました。少年時代喧嘩をして友達の親が文句を言いに来るのでいつも玄関に饅頭がおいてあったということですから、親の守りもすごかったと思います。だから小倉先生は思春期の人にも強いのです。
 脚本家・放送作家として有名な佐々木守さんは私と同じ年でしたから、小学校3年で終戦を迎え、価値観が全くひっくり返る経験をしました。信じていたものが全く信じてはいけないという経験をしたのです。当時小学生はマスコミが作った「鬼畜米英」という宣伝文句に載せられ、天皇陛下がおられる宮城に向かって毎朝最敬礼をさせられました。終戦は夏休みでしたから、2学期が始まるとそれが全く無くなったのでした。その後また労働組合と資本家の闘争を見聞きして成長しました。佐々木さんは大学生の時砂川闘争に参加し、権力との闘いを経験し、強いものにやられる弱い者の立場を経験し、それを物語に描きました。同時代の者として佐々木さんの思いはよくわかります。
 このように人生における、特に幼い頃や成長著しい時の印象的な経験の内容は後の人生の生き方を深いところから方向付けるように思います。
 日本の代表的なお二人のセラピストの人となりを考えますとカウンセラーの特性と人格的な成長過程におけるたましいのこもった深い経験を考えざるを得ません。さて皆さんはどんなご経験をお持ちですか。私のことは次回に述べます。

小倉セミナー 2月21日(日) 12:15~ 檀渓心理相談室にて
参加費3,000円 メール dankeco@iris.ocn.ne.jpで申込み(詳細は愛知県臨床心理士会HPに記載)

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