昔人は神と話をしていた

先のブログの「与那国に行って来ました」で、与那国の人々はマチリで巫女である司を介して神のお告げを聞いていると書きました。その後、与那国のマチリについてインターネットで調べてみると私の受け取りと違ったことが書いてありました。現在の与那国の公式の説明では久部良のマチリは異邦人の退散を祈願するとことになっています。その他の地区のマチリも全て神への祈願、つまり人から神へのお願いになっています。今では与那国の人々も神の言葉、宣託は聞くことは無くなっているのです。これが信仰の現代化ということでしょう。
 昔々その昔神と人は話すことができたと考えられています。しかし、今は神と人との隔たりが出来て、司を介して神と話をするようになりました。更に、現代の私たちは巫女の仲介もなく、神に直接祈願するだけになっています。
本来は人から神への祈願ばかりでなく、神から人への宣託もあったはずです。神の宣託なんぞそれは遠い昔のことで今はありえないと人々は考えています。宣託を聞かないで祈願だけというのは神との関係で不公平だと思いませんか。祈願をするなら宣託も聞かねばならないのです。
 古代ギリシャでは神の宣託を聞きました。エディプスは「父親を殺す」と神に告げられ、大きくなって父親を殺し、母親と結婚して災いを引き起こしました。モーセは神に呼び止められ、人々を故郷カナンの地に連れて行くように告げられ、十戒をはじめ生活の規範を授けられました。イスラム教では人々の求めに応じてムハンマドが神憑りになって告り伝えた言葉が記され、それがコーランになったのです。
 日本のアイヌの人々は神と共に生活していましたが、飢饉の時に手だけ差し出して食べ物をくれる女神の顔をひと目見ようとして、女神の手を引っ張って女神の顔を見ようとしたので、それ以来神が近づかなくなったという話があります。しかし、日常生活において道を通るにも木や山の神に挨拶して通してもらうという、神とともにある生活が伝えられています(金田一京助著『北の人』)。そのような神への感謝の生活は今も毎食時の「いただきます・ごちそうさま」に残っています。
 古事記は神様の話、つまり神話ですが、下巻の人間の話になると夢を通して神の導きを得ることになります。日本人にとっては夢が神とのつながりとして大変重要だったようです。そして夢に関係のある場所として泊瀬は最も重要で、そこに長谷寺が建てられ、観音菩薩を安置して夢を授けてもらうようになりました。その面影は、昔話『わらしべ長者』に残っています。昔夢は神の導きを聞くコミュニケーションサイトでしたが、今では長谷寺もお百度参りの寺になっていて、寺に籠って夢を求める人はありません。
 古代ギリシャでは医神アスクレピウスの信仰が盛んで、患者は神殿で夢を見て治療を受けていました。日本と同じく夢によって神の救いを求めていたのです。
 ユング派の分析家C.A.マイヤーは古代ギリシャの夢による治療を研究して「夢見ることは治ること」だという見解に至りました。それは夢分析の専門家には通じますが、一般には受け入れられません。
 そこで私は相談にお出でになる人の夢を詳しく調べ、夢に出てきている心の動きを見出して、さらなる神のたましいの動きを導き出そうと思うのです。これが私の対話的心理療法です。ここで言う対話とは神との対話、夢を送り出す深層の心との対話ということです。
 それは日常の生活では心のなかの声の最もかすかな声に耳を澄ますということです。心のかすかな声に耳を澄ます態度で箱庭を作ると何かが表現され、心が整理されていくのです。
 それが現代の神とともにある生活です。現代の神は教会にも神社仏閣にもいません。みなさんの心の奥深くにいます。教会や神社仏閣に行ったとき静かに内面を見たとき神が出てくるのです。