夢の警告

 フェイスブックに自分の箱庭を載せた。

 人は、自分の内面をフェイスブックに公開するなんて、そんな無謀なことをと思うだろう。しかし、自分には河合先生のように「嘘つきクラブ」を作って、著書の中に自分の夢を散りばめ、夢解釈するという才能はない。最近、自分の夢については若干解けるようになってきたが、箱庭についてはさっぱりだ。

 フェイスブックに自分の箱庭を載せたのは、不特定多数の人に公開することによって自分の箱庭表現が何らかの進展をするのではないか期待したからである。自分の内面を吐露した無様な箱庭についてコメントする人はだれもなかったけれど、箱庭を公開してから、箱庭に出た課題が気にかかって仕方がなかった。そして先日私は夢を見た。

 「私が生まれ育った家の東側の空き地が大きな倉庫になっていて、そこに廃材が山と積まれている。一抱えもある丸太がいくつも立てかけられており、皮肌葺きにする杉の皮などもあった。また、実際にはない南側の空き地は畑のようになって、人の高さほどの立派な土手もできている。その土手を、覆いを剥ぐようにめくると、そこにもいろいろな材料があった。これらの大変な量の材木を何とかしなければならないと思って目が覚めた。」

 目が覚めて、初めは自分がこれまでに貯めこんだ書籍かと思った。それらは元気なうちにゴミ処理場に運ばなければならないものである。しばらくして、これらの廃材は自分の内面に貯まった臨床経験ではないかと思った。

 自分はこれまでに沢山の事例を貯めこんで、その経験で得た智慧が臨床に役に立っている。この臨床経験を、心理臨床学研究の論文にすることは大変な作業であり、そういう仕事が出来るだろうかと心の重荷になった。学術雑誌は若い人が業績を作るためのもので、一般の臨床心理士にはほとんど読まれることがない。読んでもそれほど心に残らない。そう思っているとまた夢を見た。

 「(私の生家の家の並びの3軒上に昔おじさんが居て、そのおじさんはフイゴを持っていて炭を燃やし刃物を作っていた。)そこを訪ねて行くと、そこは大きな家になっており、“おばさん居ますか?”声をかけ、裏に廻るとおばさんが出てきて、おばさんは登り窯の火を焚いていた。火は盛んに燃えていた。さらに奥に入ると右側に少し近代的な窯が出来ていて、そこでは息子さんの一人が焼き物をやっていた。」

 この夢は私に大量の廃材の使い道を示唆していると思った。材木を燃やして焼き物を作れば良いのだ!と。大層な学術論文を作るよりも、ちょっと手に取れるお茶碗のような、手頃なお話に臨床経験をまとめることを夢は勧めていると思った。これなら出来そうである。

 私は自分の夢を見るために、サンフランシスコ山中の禅寺に行っていたけれど、フェイスブックという不特定多数の人々を相手に、自分の内面を公開すると何らかの自己洞察に至る可能性を見出したように思う。

 

〈次へ  前へ〉