源氏物語ー男性と女性の心理学

この3月旅行に出たとき源氏物語を持って行って読んだ。瀬戸内寂聴訳で読みやすくてよかったが、最後まで読んだところで怒れてきた。瀬戸内さんの訳があまりにあまりに偏って、外向的で衝動的で性的に激しい男性を良しとしているので、瀬戸内さんはこんな人かと思ってがっかりした。瀬戸内さんは文化勲章をもらったはずだが、それは愛欲の性を文学まで高めたことが評価されたのではないかと思ったくらいである。瀬戸内さんは恋人の奥さんやその娘さんと対談してそれを雑誌に公開することができる人である。性をこれだけオープンにできるのは女性だからだろうか。女性はトイレに行くことが少しも恥ずかしくないように愛欲についてオープンであるようだ。そして知性的、理性的男性よりもハンサムでかっこよく衝動的に激しく求めてくれる男性の方に魅かれる、それが女性の本性なのであろうか。

源氏物語の訳とその感想では内向的で自制的な男性を瀬戸内さんは低く評価している。内向的で自制的な男性を理解できないのではないかと思った。それくらい外向的な性格なのであろう。『場所』という自伝的小説には彼女が離婚して小説家になることを導いた男性のことが書いてある。その男性との関係は最後悲劇的な結末を迎えている。彼女と男性は全く心が通ぜず、わかり合えなかったのではなかろうか。恋人との関係も主として愛欲の関係でつながり、精神的なつながりはあまりなかったのではないかとさえ思った。小説の物語を現実と混同してはならないと言われるかもしれないが、小説家は自分の本当のことに基づいて書くのではないか。本当の深層が出てくるから読み応えがあるのではないかと思う。小説『場所』と源氏物語の訳とその解説を同時に比較し、それを瀬戸内寂聴さんの現実を混同することは間違いであるという批判があることも考慮して、以上のことは仮説として考えておくことにする。

 

源氏物語の光源氏という男性は、光り輝くように素敵だというだけであまり性格がよくわからないと言われている。前半には光源氏の外いろいろな男性が出てくるのだが、他は精彩がない。いわば中年女性のあこがれの男性像である。今でいえば福山雅治や氷川きよしであろうか。他に比べるものがない。

平安時代は身分の上下、貴族とその他がはっきり分かれていてそれを考慮して読まないといけない。源氏物語は貴族の社会の物語である。

源氏物語の中に出てくる女性の中で誰が好きかと女性は男性に聞きたいのではないか。学会の対談で瀬戸内さんに誰が好きですかと聞かれた河合隼雄先生は、答えに困って紫式部ですと答えらえたと記憶する。私もそう思う。夕顔や浮舟が好きだという人もいるようだが。二人は性的世界にのめりこんだ女性である。

源氏物語を書いた紫式部は男性や性についての理解が相当に深いと感じた。その精神的な深みを愛欲の物語レベルで考えている瀬戸内さんにがっかりしたのである。

 

宇治十帖、つまり後半で薫と匂という二人の宮が出てくる。薫と匂、両方とも英語に直すとsmellである。日本語の薫は文化の薫りというように内包的な意味をあらわしている。それに対して匂は彩り鮮やかな華やかな感じを表している。薫はどちらかというと内向的、匂は外向的な性格で、紫式部は二人の男性をそのように描き分けていると思う。薫は内向的で自制的な男性、匂は外向的で衝動的男性である。初めに出てくる光源氏はどちらかというと外向的衝動的な性格であるが理性的な面もかなり持っていたのではないか。かかわりのあった女性を身近なところに住まわせ生活の面倒を見ている。後半の薫の性格をも持っていたのである。知性的で自制的な男性は前半では頭中将という人が出てくる。光源氏が居なくなった後半の次の世代で薫と匂という対照的な男性を配置して物語が展開する。つまり前半で考えた外向的衝動的な光源氏と内向的知性的な男性をもっと際立させて物語を作ったところに紫支部の知性と精神的な深まりを感じた。

女性像も前半では六条御憩所と夕顔が対照的で、六条御憩所が理性的抑制的で、怨念をもって夕顔に襲い掛かって行くという点では内向的女性であり、呼びかけにすぐ応えていく点で夕顔は外向的衝動的性的女性である。後半の宇治十帖では大宮と浮舟が対照的で、大宮は父親の言葉を守り、浮舟は二人の男性の誘いに揺れる外向的性格である。

六条御憩所は貴族であり、夕顔は平民、平民と言ってもたぶん地方に派遣された高級官僚の娘であろう。後半の大宮と浮舟が対照的である。薫が恋い慕う大宮は貴族であり、理性的自制的な人で性的な関係を拒否し拒食して亡くなってしまう。(―つまり平安時代に摂食障害があったのである。)一方、衝動的な匂が愛し、愛欲におぼれてしまう浮舟は大宮の妹ではあるが、認知されておらず貴族ではない。

夕顔は庶民の町から貴族の館に、そして浮舟は貴族の別荘から川向うの庶民の館に連れていかれて愛され、夕顔は六条御憩所に呪い殺され、浮舟は薫と匂の愛の挟間で自殺を企てるが亡霊に導かれて記憶喪失になってしまい、ついには出家してしまう。女としては死んだことになる。

源氏物語の前半と後半はこのように非常に対称的で、後半の宇治十帖の方が男性も女性も性格が際立っている分物語は面白い。紫式部の素晴らしいところは男性と女性の性格をきっちり分けて物語を作ったところであろう。紫式部は薫と匂、六条御憩所と夕顔、大宮と浮舟、そして庶民の方に性的な世界を、そして貴族の方へ精神性と宗教性を配置しているところが興味深いと思った。

 

女性の多くは浮舟に共感するらしい。それは愛に生き、そして自我をしっかり保って出家するところが良いらしい。

しかし、私の心理臨床の事例から考えると少し違う。

夕顔や浮舟のように別世界に連れていかれて、男性の愛欲の世界に浸って性的にのみ愛された女性は間違いなく性愛が嫌になると思う。どんなにお金を積まれ生活を保障すると言われても性愛だけの関係では女性は生きられない。女性にも精神性が必要である。

浮舟の出家は性の世界からの断絶であって、自我をしっかり保ったというわけではない。自我をしっかり保っているならば、弟や薫としっかり話をして相互の理解の上で出家するのが筋ではなかろうか。浮舟は単なる仕切り屋の心理で薫や弟と断絶したに過ぎない。仕切り屋は自我が強いように見えるが、それは仕切りの強さであり、社会的関係を円満に保っていく自我の強さではない。

小説『場所』によると、寂聴さんもあるとき出家したいと思って尊敬するお坊さんのところへ訪ねて行った。そのお坊さんは、もう男はいいかい?と聞いたのでハイと答えたと『場所』には書いてある。このお坊さんは豪快な男らしい男で、若い女と寝ても一晩中話をして過ごすような人だから、寂聴さんはこのお坊さんと精神世界で出合うために出家されたのかもしれないと思うくらいである。出家した先でも男と女なのではないか。紫の上や大宮の出家願望とは違う気がしている。性から完全に解離した精神世界が開けているけれど、女性はそこでも精神的性的世界を夢想し満足できるのではなかろうか。男性とはかなり違うようだ。

 

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