タテからヨコへ

先日、親分子分の関係は終わりが来たということを書いた。和を以て貴しとなす聖徳太子以来の日本の基本的な人間関係が表面上消えてきたのである。親分の下でみんなが力を合わせ助け合いながら苦労を共にしていくことが少なくなった。

今はヨコ並びになって競争的になってきた。ここでは協力や助け合いは影を潜め、他を出し抜いて得をすることが良いこととなった。

私たちの心理臨床の世界もその影響を受けているのではなかろうか。

今まではフロイトやユングがもてはやされ、指導者として国際的な資格を持った人が上に立って指導してきた。河合隼雄先生や土居健郎先生はまさにそうであった。お二人は共に先生と呼ばれるにふさわしい人格と人を指導する力があった。しかし、今、スイスやイギリスで資格を取った人がどれほどの魅力があるだろうか。日本で実力を磨いてきた大住誠先生の瞑想箱庭療法は箱庭療法学会のワークショップで紹介されることはなく、無視されている。大住先生は瞑想がなぜ箱庭療法の効果を上げるのか検討する必要があると思うが、それを人と討論するためには別に学会を作らなければならないのだ。しかし、それは大変エネルギーのいることだから先生はやらない。ご自身一人の学会である。

私たちは一人一人自分の世界を持ち、横並びで仕事をすることになった。ヨコ社会に生きているのである。個性をもった人たちが集まっていろいろとアイデアを出し合い事例について話し合いながら今日の心の問題を考えていく機会があっても良いのではなかろうか。

横並びという観点でみると、心理療法家もうつ病の人も同じ地平に立っているのではないか。医師が上で患者が下、臨床心理士が上でクライアントが下ということはない。上下はタテ社会で成り立つことで、ヨコ社会では医師も臨床心理士も患者もクライアントも心の問題を考えるという点でそれぞれに専門家なのではないか。専門家ならば対等に話し合いながら解決の道を共に考えていくことが可能なのではないか。

クライアントを悩みの専門家というのは大変皮肉に聞こえるだろう。しかし、私のところに見える人はわざわざ高い料金を払って話に見え、悩みを悩み続けられる。クライアントも悩み私も悩む、悩みながら話し合っている。そこに新しいものが次第に出て来て人生の道が拓けてくる。それはさわやかな喜びである。発見や成長の喜びと言ったら良いだろうか。

悩みたくない人は心療科へ行って薬を処方してもらい悩みを軽減される。悩まないでよくなる方を選択されるのである。そこにも病からの解放という安堵感がある。科学的なものに守られていると悩まなくて良い。

悩む人と悩みたくない人のすみわけがここにあると思う。臨床心理士にもスクール・カウンセラーやクリニックの臨床心理士として雇われてやって行きたい人と独立して自分の心理臨床の世界を持ちたい人のグループに分かれるだろう。これらのグループの違いは重要である。ヨコの世界ではこのようなすみわけの意識が重要なのではなかろうか。

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