小沢一郎氏無罪の報道から考えたこと

政治家小沢一郎氏が無罪になった。小沢氏の弁護士は弘中惇一郎氏で、又勝ったと思った。

弘中弁護士は、ロス疑惑の三浦和義氏や薬害エイズの阿部英氏を無罪に導いた。多くの人が悪者と目している人を無罪にするとはと驚き困惑している人も多いのではないかと思う。私もそう思う一人である。

しかし、以前の新聞記事から弘中弁護士の考えを思い起こすと、弘中氏弁護士は、マスコミにすごい悪者のように目されている人たちはもしかすると不当に悪者とみなされているかもしれない、法律的な観点に照らしてみた場合、悪いと判定する確たる証拠がないかもしれない。確たる証拠が無ければ、疑わしきは罰せずの原則に従って無罪になるのだということである。弘中弁護士が小沢氏の裁判を無罪に導いたことは、小沢氏は政治家として良い人だと判定したわけではない。法律に照らすと裁判に向けて起訴する根拠に欠けていたということを明らかにしたにすぎない。

小沢氏が無罪になったから野田首相は苦労するだろうと新聞記事から読み取れる。

私から見ると、問題は、時代が変わり、小沢氏とそれに連なる政治家のグループがまだ大勢いて、古い政治の体質が残ったということである。

小泉純一郎氏、小沢一郎氏らは同じく親分子分の関係の派閥で、いわばヤクザ体質である。これは古い日本の人間関係である。この親分子分の古い人間関係が今壊れようとしているのではなかろうか。もはやこのような古い人間関係は日本では頼りにならなくなっていることを多くの人が感じ取っていると思う。

私たちはこれまで良く新聞を読んできたし、新聞の報道に影響され、新聞の報道を信じてきた。悪者に仕立て上げられる人もそれなりの時代の重荷を負っているのだと思う。しかし、弘中弁護士はマスコミがある人を不当に悪者に仕立て上げいじめていくことが見逃せないという立場である。

不登校の子どもたちがいる。不登校は親の責任を問うてはいけない、学校の責任を問うてもいけないという原則がある。親の育て方が悪かったと言っても取り返しようはないし、学校の責任だと言っても始まらない。弁護士の立場から言っても責任がすべてそこにあるとは言えない。親分子分の関係がすでに政治では時代遅れになって行くように、職場や学校で日本の古来の和の精神が無くなって、周りはすべて競争の相手になってきている。そいうところで家意識や人の和に守られてきた人は生きづらい。そうして行き詰った人たちが不登校や閉じこもりになるのではないか。本人たちも自ら望んでそうなったわけではない。そうなってしまったのだ。その責任はしかしその本人にかかってくる。無罪ではあるが、あたかも有罪なのだ。

私たち心理臨床家の仕事は、本人は無罪ではあるが、有罪になっている時代の重荷を背負った人々の重荷を研究してそれをどうするか一緒に考えていく仕事である。時代遅れの、新しいことに後れを取って行く気弱な人の生き方を探る仕事である。人が前向きに生きようとする限り何か生きる道が拓けると信じたい。