人間的なかかわりの大切さ

 歳をとった今、臨床心理士と呼ばれる専門家の研究会に行くことはほとんどなくなり、臨床心理士の足りない地域で相談や教育の支援にいそしんでいる人々の研究会に行って話をする機会があった。昨年私の話を聞いて今回は私の来訪を心待ちにしていてくださった方もあって本当にうれしかった。本当に心底心の相談に熱心な人々に接しているとこちらも思わず心の底の思いを引き出されてしまい、人に話をしながら自分も学べたという満足感があるので話をさせてもらってありがとうございましたという言葉が自然に出てきた。

 娘がうつになって心療科の臨床心理士に会って気持ちをわかってもらえなくて不満足だったという話を聞いた。その臨床心理士はおそらく最近の精神分析を勉強した人で、青年期の患者の親には会わないという考えの人だった思われる。だから子どものことで担当の先生に会いたいと言ったときに、子どもの問題であってもそれはその人個人の問題の一部なのだから、患者である子どもとは別の患者として対応されたのであろう。

 最近の精神分析の臨床心理士はたとえ患者の親であっても個人として対応することがあまり知られていないのでこういう結果になるのである。このような親と子は別であるという精神分析の専門的考えは人々の一般常識には合わないのだが、それをしっかりと教えられたように専門家として実践するのだから、良く教育された型にはまった臨床心理士という外はない。こういう臨床心理士に出会ったら、そうでないもっと常識的なことのわかる臨床心理士のところに行かなくてはならない。

 同じ研究会で聞いた別の事例は上に述べた事例とは全く反対の人間的なものの大切さを考えさせる事例だった。

 年配の女性が教育センターの適応指導教室のようなところで面接した不登校の事例だった。ほとんど自発的な話のできない孤独な女生徒だったが、その年配の女性と関係がついて少し元気になってきた。ところが元気になってきたところで将来に備えてもっと専門的な機関につないで治療を受けさせる方が良いという関係者の話し合いで、年配の女性カウンセラーから他の機関に移されカウンセリングは中断してしまった。ところがその不登校の女生徒は他の機関に移ってから次第にやせはじめ、がりがりにやせた身体になってしまったという。自分の気持ちを言葉で言えないその女生徒は身体で拒否反応を示したのだった。

 その子は言葉では言えないがずっと漫画の絵を描いていて自分で物語をいくつも作ることができる才能があった。彼女はその絵を年配の女性に見てもらうことによって心を開いていたのだった。描く内容は次第に大胆になっているように見えた。心の内側で強くなり少し元気になった女生徒を見て関係者はその子の将来に希望を持ったに違いない。

 言葉で表現すること、教科書で勉強することにしか関心のない学校や周囲の関係者は少し元気になってきた女生徒の将来を考え専門的な機関に託すことがベストと考えた。担当しているカウンセラーは臨床心理士ではないカウンセラーだったから、もっと専門的な治療を受けさせたらもっと良くなるのではないかと考えたのであろう。

 しかし、年配のやさしいおばあさんともいえる女性との人間的な関係を切られたことは女生徒にとって漫画による自己表現手段を閉ざされ、生きる道を阻まれたことに等しく、静かな自殺への道を選択したのではないかと私は思った。『西の魔女が死んだ』という物語のあのおばあさんとのつながりを生木を裂くように切られたらあの物語はどういう結末を迎えただろうか。

 型にはまったいわゆる専門的な心理療法と、心の悩みにかかわりたいというやむに已まれぬ気持からカウンセリングを学び、専門的なものが足りない分、誠実にかかわろうとする人間的なかかわりによって心を開いていく非専門的な生き方の違いを私はこの研究会で知ることができた。

 これからは資格がものを言う時代である。資格のない人は当てにされない。専門的な臨床心理士の多くがいつでもどこでも人間的にクライアントに接する時代が来るのはいつのことだろうか。今型にはまって一所懸命努力している臨床心理士が型から抜けるのにあと何年かかるだろうか。茶道は女性が多く入るようになって型にはまり作法が重視され面白くなくなったとある男性は言った。型にはまった臨床心理士が型から抜けることがあるのだろうかと私は気に

 

※旧HPのブログは文末「気に」だけで終わっています。おそらく「気になった」と書かれたかったのだと思います。

 

 

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