発達障害についての私の理解

 最近発達障害ということが喧伝されている。その発達障害とは何か私はなかなか納得がいかなかった。というのは誰でもすべての面で発達しているとは言えない。誰でも部分的には発達障害であるはずだ。しかし、最近発達障害と言われているものは部分的に未発達な面を持つ、ある特殊なタイプの一群の性格を言い表していると思われる。

 それはアスペルガー障害とまではいかなくとも、その種の社会性の脆弱さを持ち、その年令相当の社会化ができない人々のことである。

 あるクライアントの一人は学生時代クラブ活動では仲間と良い関係を持ち、バイトでも不器用であったが仕事を続けることができた。卒業後クラブの会合にも出席することができる。

 しかし、人並みに仕事に就くことができない。パートの仕事にも就くことができない。学生時代は許された失敗もパートの仕事では許されないと思うのではないか。もともと自信がないから仕事に就くことができない。

 この自信とは勇気のことである。未知のことに挑戦する心構えのことではなかろうか。勇気とか責任とか自覚していない人が増えたのではなかろうか。閉じこもりと呼ばれる人もそうではないかと思う。社会人としての勇気や責任感が乏しいのではないか。

 子どもが熱を出して病院へ連れていかなければならないから、母親が車を出してほしいというと、俺はタクシーではないという夫がいる。夫には子どもの父親としての責任感がない。子どもの面倒を見るのは妻の役目と割り切っているのであろう。

大学を卒業してしばらく仕事に就いたが不景気で仕事がうまく行かず無理なことを言われ、たまりかねてやめてしまい、その後職探しが進まない。親に小遣いを貰いながら生活保護を受けている女性のところで子どもの相手をして過ごしている30代の男性がある。

 このような人格像は以前のアパシーや閉じこもりと違い、ある程度の社会性を持っているが、自分の道は自分で切り拓いていこうという勇気や責任感に欠け、今一歩前に出ることのできない人々である。何か資格を取れば新しい道が拓ける可能性があるけれどそれにも挑戦しようとしない。

 ちょっとした挫折がもとで内に引っ込み、再び社会に出て独立的に生きて行こうとしない人々が出てきた。結婚しても中年になると夫の意識がなく、子どもにも親としての責任を持たないで、しっかりとかかわろうとしない人々がある。こうした社会的な何かが欠けている人々が増えてきたのではないか。従来のアパシーとは少し違う。

小学校では特に低学年で生徒という意識に乏しく教室で幼児のようにしている子どもや教室から飛び出していく子どもたちがいる。これらの問題の背後にあるのは社会性の欠如と言えるのではないか。

これが私の理解した発達障害である。

 

 

〈次へ  前へ〉