本当の和解

 キリスト者として神に仕えることを仕事として生きてきた人があった。その人の子どもは青年期に達したとき学園紛争に巻き込まれ、その時何か思うことがあってそれ以来親との関係を絶ってしまった。

 親であるその人は子どもとの関係の断絶があって、歳をとり死を前にしてどうしてよいかわからなかった。そのことだけが心残りだったと思う。

あるとき大きな物音がしたので部屋に入ってみると花瓶でガラス窓を打ち破ろうとされたことがわかった。お世話をする人は痴呆が進行したと思った。

その方は介護者に伴われてカウンセラーのところに来られた。痴呆が進んでいますとの説明付きで。

 意識が定かでないように見えるその方が沈黙のあと、「私は信仰を辞めます」と言われた。長い間仕事として信仰を続けてこられたので、カウンセラーは本当にご苦労様でしたと心からねぎらった。そしてこれから本当の信仰が始まりますねと言った。

その後、その方は近くの教会に通われる一方、月1回、昔関係のあった教会にタクシーで通われるようになった。次にカウンセラーがあったとき子どもが元気でいることがわかりましたと言われた。それからは介護者には痴呆は改善していないように見えるけれども、昔保育園を手伝っておられたこともあって絵本の会に出て絵本を読むまでなられた。

 そして約1年後子どもに見守られて旅立たれた。

 仕事としての信仰を捨てたとき本当の信仰が開け、長い間断絶していた関係も元に戻ったというこのことが心に深く収まった。ここに本当の和解ができて、一人の学生の学園紛争が終わったのではないかと思った。

 この事例から、外見は痴呆に見えても内的にはしっかりとした人があることをわかっていただきたい。外向的には呆けても内向性は呆けていないのである。これは心の深層の本当の話をすることによって開かれるところである。

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