人として生まれる

 ユングは子どもの夢について語ったところで「まだ生まれていない子ども」という言葉を使った。子どもが短い人生しか生きていいないのに未だ経験していないような内容の夢を沢山見ていたからである。

 私は今心理臨床の中で今生まれつつある人に会っているように思う。

 子どもとして生まれる、大人として生まれる、女として生まれる、男として生まれる、などいろいろある。

 ある方が絵をかくためのアトリエを作ったというので見学に行った。その方は毎日まいにちアトリエに行って絵を描いている。これまで書き溜めた絵も見せてもらった。その絵を見ているうちに、今この人の心の中で新しい心が生まれつつあると思った。これまでに描きためた絵を年代順にみると明らかに体をもった人間が生まれつつあると思った。その方は健康な体と崇高な精神をお持ちであるが、体を崇高な精神のうちに本当に取り入れることができていなかったのではないかと思う。それを今老いを前にして、絵を描くことによって成し遂げようとしておられると思った。

 その方はあるとき河合隼雄先生の本を読んで自分はどのように生きても良いのだ、どのような在り方でも良いのだと感じて人生観が変わり、好きな絵を描くようになった。好きに描いてみると自分の何かが出てくる。描くとすっきりする。次々に描いて出てくるものに出会う。まるで棟方志功みたいである。

 夢のシリーズの中で子どもが生まれるとか、自分が母親になっているということがある。自分の子どもとは限らない、他人の子どもを育てていることもある。子どもと母親のテーマは多くの人に見られる。女性の夢には特に多い。成人してから改めて母性を獲得するときなど、自分が母親になっているとか、他人の子どもを世話しているという夢を見る。母性を獲得するために夢で母親になるのである。

 昔は子どもがなかなかできないとき養子をもらって育てた、養子は大抵男の子である。長男相続ということがあるので男の子が選ばれるということもあるが、男の子の方が甘え懐き、母親も大体男の子が好きだから男の子を養子にする。その子を育てているうちに母性が育ち子どもができるようになる。それが昔の不妊治療だった。

 女性が母親になる前に体を崇高な精神の土台として取り入れることが必要である。それが無ければいくら子どもを抱いても母性は育たない。母性を育てるにはまず体を取り入れなければならない。

 人の身体は哺乳類の肉体性を持って初めて妊娠することができる。

 しかし、近代教育を受け崇高な精神を持った女性は時として身体を受け入れず、天女のような清々しい女性になっている。天女は身体性がないから天空を駆け巡ることができる。健全な体をもち鍛えてスポーツの世界で華々しく活躍する女性でも、スポーツを支える崇高な精神と体は別々かもしれないのである。

 スポーツ万能でも愛する男性に抱かれるとか性的な関係は厭わしいと感じる人がる。そういう人は身体を受容しているとは言えないことがある。もし抱かれるとか抱きつかれることを厭わしいと感じるとき妊娠して子どもができたら、愛着を求める子どもに手を焼くに違いない。

 多くの女性は思春期の初めにおいては天女である。それがあるとき性に目覚めて哺乳類の体を獲得する。そうすると空想世界は天女的であっても、実際は性の世界に開かれ勉強は二の次になる。小学校時代勉強のできた女子が中学2,3年生で急速に成績が下がるのはそのせいである。

 結婚し子どもも育てて思春期になってやっとこの課題に取り組まれることがある。思春期からのやり直しである。追いかけられる夢を繰り返し見る、好きだった男性が夢にもう一度出て来て懐かしく思うなど、こうして意識と気持ちがつながるとき、崇高な精神と肉体がつながるのではなかろうか。そうして初めて大人の女性として生まれる。

 一方、男性は母子密着で思春期の初めから肉体に埋没しており人生も後半に差し掛かってやっと精神と肉体が分離し始めるのではないか。多くの中年男性がそのために仙人願望を持っている。仙人願望を持っている男性は一般に健康である。むしろそれがないのが問題ではないか。

 相談室で多くの女性に会ってきたが、女性の誕生を手伝うのが私の仕事であるらしい。

 他人のことばかり書いて申し訳ないが、私は今子どもとして生まれつつあるのではないかと夢から感じている。まだ、3,4歳の幼児であるらしい。今も昔もそうだが、特に昔は社会性が無く、硬い考えに縛られていて窮屈に感じていた。それがやっと今幼児からやり直しという訳である。

 分析とはこういう自分の内面を夢や箱庭で探求しながら生きることである。先に紹介したアトリエを作って絵を描く人も夢分析を行えばもっと苦労せずに生まれることができると思うが、その過程を苦労して絵に描いて残せば多くの人がそれを見て救われるかもしれない。私もこういう風に生きていいのだと絵を見る人は感じるに違いない。河合隼雄先生がその人に教えたように。私はこのように文章を書きながら生きていくのだがそこに何か影響を与えるものがあれば幸いである。良い影響ばかりとは限らないから見分けていただきたい。

 

 

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