永遠の女性とは

 少年の遊戯療法では宝探しのテーマが出てくる。この宝探しのテーマは神話やおとぎ話や神話では英雄の龍退治のテーマである。日本の神話ではスサノオのヤマタノオロチ退治であり、桃太郎の鬼退治の物語がある。スサノオはヤマタノオロチを退治して剣を得、娘を救い出した。桃太郎は鬼を退治して財宝を得た。一説には鬼が攫っていた娘を取り戻した。

 男性の象徴の剣、一生暮らせる財宝、そして心を支える女性だ。男性はこのような象徴に向かって動き始める。それが小学3,4年生、10歳前後のことである。母親から離れ、友達と遊び、友達を知り他所の家庭を知る。物事を客観的に見て考え始める。やがて思春期を迎え大人の世界に向かって生きはじめる。

 社会に出て生活に十分な富と得ることは難しい。権力の座に就くことはさらに難しい。しかし、永遠の女性に出会える可能性は誰にもある。

 永遠の女性とはどんな人か。ずっとずっと愛し続けることのできる人なのか?果たしてそうだろうか。愛し続けることは難しい。愛の裏には怒りがあり、飽きてくるとその怒りは爆発するだろう。その先には性格の不一致として離婚が待っている。

愛が頼りないとすれば何があるだろうか

 協力ではないか。互いに助け合いながら、心を開き、経験を語り、判断をを求め、相手の判断が間違いないものであれば、互いに安心して支え合い生きることができるのではないか。

 私たちは生きていくうえで様々な経験をする。その経験について正しいと思える判断ができることは何物も代えがたい。偏見にとらわれず素直な人間的な判断ができることが望ましい。そういう望ましい判断を与えてくれる人、あるいは、話しながら自分が素直になって判断したことが相手に認めてもらえることは深い安心感と生きる喜びを与えてくれる。そいう女性が居れば、お金や地位は生きるに必要なだけあればいいと思える。

 沢山の女性を愛したカザノヴァは永遠の女性について次のように書いている。

 「彼女は本も読んでいたし趣味も良かった。その判断には狂いがない・・・そしていかなる偏見もない彼女は、何か重要なことを話すときにも、必ず微笑をたたえて、いかにもたわいのないことのように見せかけながら、誰にもわかるように話した。彼女はそうすることによって、才気の足りないものに才気を与え、その代償として誰からも熱愛された。・・・才気渙発な醜い女性は、その才気によって、非常に男の心を燃えたたせ、ついにはその男にほかのものは何もいらないとまでおもわせる。」

 才気のある女性は、美よりも才気をとると書いている。

 なぜ才気をそれほどにまで尊重するのか。

 その才気は素直な客観性に裏づけれていると思う。客観的な素直な判断こそが心にとって大切なのだ。北野武さんはテレビでうつにならない方法として、常にもう一人の自分が自分を見ていることだと言った。あっ!あいつはうつだと見ている自分がいること、それが大事だというのである。つまり自分を客観的に見ている自分が常にいること、この客観的になれる自分を誰かと共有できることは大切であり、それができるには謙虚でなければならない。ロールシャッハ・テストを実用的に再構成したクロッパー,Bはこの謙虚さを自我の強さの指標としている。客観性を持った謙虚な女性は相当に強い自我をもった人ということができる。

 男は、時として信頼できる男の前で謙虚になることができる。しかし、いつもそれが可能とは限らない。相手が女性であれば、男性はかなり自分をオープンにすることができる。若い女性カウンセラーと年配男性クライアントの組み合わせは悪くない。男性が素直に自分の弱点も隠すことなく出すことができるからだ。それに甘えていると成長しないけれど、才気ある女性カウンセラーは男性に前向きに生きる勇気を与えてくれるだろう。

 しかし、才気ある女性も強い自我のゆえに共に過ごすことが難しいことがある。だから、カザノヴァが言うように、「必ず微笑をたたえて、いかにもたわいのないことのように見せかけながら」という点はとても大切なことである。そこには理性の強さだけでなく、やさしさがあるにちがいない。そのやさしさに包まれた偏見のない素直な人間的なはんだんが大切なのだ。

 才気ある女性は強さだけを振り回すことがある。いわゆる仕切り屋さんと強迫的な女性である。やさしさの欠けた仕切り屋さんは、他の人々に配慮することなく自分の理性で仕切る。すると仕切られた人は何も言えなくなる。自分が行きたくなくてもトイレについていく女性、みんなを引き連れて行動する女性は客観性に欠ける。強迫的女性もかなり頭は切れるが、自分の理性で身を固めているから自分の枠以上には動けない。

 やさしい才気ある女性は頭で考えない。心の奥のささやきのこころで感じわけているのではないか。切れ味はあまり感じなきかもしれないが、的確なのである。ピタッとくる言葉として入ってくるのではないか。ゆったり考えさせるゆとりという強さを持っているとおもう。