自分の心が空っぽだと気づく時がある。
勉強ばっかりしてきた子どもが、あるとき、友達もうまくできず、一人になれず、何をしたらよいかもわからず、当惑することがある。不登校の子どもが大抵そうである。運動ができた子どもがあるとき怪我をして運動で生きられなくなったときも同じようなことがおこりうる。あるいは、両親の夫婦喧嘩の下で育った人の中には、いつもいつも親のことを心配して、自分の心に目を向ける暇がなかったという人もある。きょうだいに障碍者がいて親はその子にかかりっきりで、自分もきょうだいのことで気を遣い、自分のことに気が回らなかったという人もある。思春期にきょうだいが家庭内暴力や非行に走り、その心配で困ったという人もある。勉強や運動ばかりした果てのむなしさではなく、周囲の騒々しさに惑わされての心のむなしさはうつ状態と同じくらいむなしいものである。
私も同じような境遇にあったと思うが、幸か不幸か、家は貧乏で、家を一旦出たからには帰るわけにはいかなかった。大学院では先輩に助けられ、東京に出ても社会生活に慣れていない私は恋人や友人に助けられやっと生きる道ができた。生活するのに精いっぱいで、心の空っぽさなど考える余地もなかった。結婚して先輩に導かれ公務員になったとき、生活が落ち着いてやっと私は自分の心が空っぽであることに気がついたのだった。幸いにも次の年から河合隼雄先生に分析を受けることができ、自分の心が何とかなり始めたのだった。
「分析の効果は少しずつ出てきます」と言われた。私の心の空っぽさが埋まり始めたのは分析が終わって5年もたってからだった。自分のしたいことができ始めてからであったことが、ずっと後になって振り返ってわかった。
自分は空っぽである、何とかしなければと思い始めたとき私は動き始めた。心の空っぽ、つまりは、うつ状態を受け入れたとき前向きの動きが始まったのだと思う。それまでの動きは焦りではなかったかと思う。分析を受け、ユング心理学を必死に勉強したが、しょせん、それは借り物でしかなかった。自分の経験やそこから学んだことで自分を埋めていく以外にないということだったのではなかろうか。分析の効果の発現には5年かかった。
心の空っぽさ、つまりは、うつ状態をありのまま肯定し認め、受け入れるとそこから前向きの前進や新たな創造的な生き方が始まるのではなかろうか。
多くのうつ病の人たちはうつ状態を嫌い、否定し、そこから逃れたいと思っている。しかし、反対にうつ状態を肯定し、うつになっていると何かが始まるのである。
不登校から登校へ、引きこもりから社会へ、出社拒否から出社へと急ぐ心を抑え、何もないゼロから出直すことを考え、ゼロに徹することが案外早道ではないかと思う。
ゼロからの出発はどちらの方向へ行くか、また、いつ前進が始まるか予想もつかないことだから、必ず何とかなると約束はできないことだけれど。私の経験では自分の深層の心につながっているといつか良い出会いがありそうだという希望がある。その出会によって空っぽさが埋められると信じている。