不登校の理解のために

 先に和を以て貴しとする社会関係から自己主張の社会に変わりつつあることを書いた。

 昔の不登校の子どもの家庭には配慮的で自己主張しない忍耐強い親の姿が多く見出された。その方たちは、子どもが不登校になっていることで、親が悪いと見做され苦しまれることが多かったと思う。親が自己主張しないから子どももクラスで自己主張せず、生きにくくなり不登校になるのだと私も考えた。しかし、配慮的で自己主張しない忍耐強い人はいわば昔タイプの、和を以て貴しとする、争いを好まない人たちであった。そのタイプの人は個性尊重の、自己主張の今の時代には合わないのである。

この自己主張の時代になって、今もなお良い子ができてくる。親の期待に添い、勉強し、反抗することなく成長してくる。そして思春期になって親の期待に添うことを辞める。期待に添い続ける元気さもなくなっているから、なんとかしようとしても動かなくなる。そんな事例が一つや二つではない。

 日本の文化の基礎はやはり和を以て貴しとするものだから、できるだけいさかいをさけるように生きていくのである。今でも多くの子どもがその生き方で生きている。

良い子の生き方とは何か、それは自分は何をしたいかがわからず、わからない分、親や先生や周囲の人々に役に立ちたいと思って生きているのである。カウンセラーになりたい人の中にもそういう人が見出される。人の役に立ちたいからというのである。

そこには自己主張の基礎となる自分がない。期待に添って生きているうちに自分が見えなくなっているのである。

 親は子どもに期待する。期待して当然である。期待されない子どもたちは不幸であると思う。そこに期待に添って生きて行く子どもたちがいる。親も子も同じく気持ちを合わせ一所懸命に生きてきている。そういう子どもは友達関係でも、友達に合わせようとする。仲間にされている間は問題はない。

 しかし、親や周囲の期待に添って生きることを基本としてきた子どもが友達にはばにされた時、どうして良いかわからなくなる。特に女の子がはばにされて一人でお弁当を食べなければならなくなったときにどうしてよいかわからなくなる。このときどうしたらよいかと大人の女性に訊ねてみるが、良い回答は得られない。母親もどうして良いかわからなくない。男性の私に良い知恵はないかと問われても答えはない。

一人で生きる力があれば別だが。

 私の高校は男子校で、3年の時クラスに女子が5人いた。そのうち一人は一番後ろの席で、席替えがなかったから、いつも後ろに一人でいた。その一人の姿がすごく印象に残っていて、どう理解して良いかわからなかった。その子は某有名女子大に進学したが、同窓会名簿でもその後の様子は不明で、誰に聞いてもわからない。彼女は一人でいきる決心をしたし、そう決心する強さがあったのである。

 一人で生きる強さがないときどうしたらよいか。

 学校に行けない子どものことで悩んでいるあるお母さんに、あなたは仕事に目が行って子どもに向いていませんといったことがある。カウンセラーとして一番気にかかっていたことだから勇気を起して言った。そのお母さんとはその後長い間会うことがなかったが、自分が親の期待に添って少しも自己主張してこなかったことを重く見て、子どもに言いたいことを言いなさいと要求したらしい。多分子どもも自分の考えを言い、そして子どもの世話をしていたお父さんも自分の言いたいことを言われたのであろう。久しぶりに会ったそのお父さんは以前に比べて元気のよい強いお父さんになっておられた。そして自分たちで子どもを守っていきますと言われ、その積極的な態度に感服した。やはり自己主張の時代になったのだと思った。

 誰もが将来どうなるかわからないこの時代一心に生きようとしているのは間違いない。誰でも悩んでいる。私たち臨床心理士でも明日はどうなるかわからない。めまぐるしく流行が変化するこの臨床心理の世界では古いやり方は省みられることがない。だから私もこうして自分の考えを述べ、心の中から思いを吐き出して心の色眼鏡を捨てて前進して行かないと時代の変化に遅れてしまうのである。