乳幼児期から良い子を生きる子どもたち

 珍しいことは二度おこる。これもシンクロニシティであろう。珍しい患者は続けてくる可能性があるから注意しておくようにと先輩医師に教わったとユングもどこかに書いていた。この5日間で私は珍しい事例を二度経験した。

 

 生まれてすぐから病院や乳児院で過ごした子どもの箱庭を見る機会があった。二人とも男の子で箱庭の中に家や建造物や車を沢山置き、動物にはほとんど関心を示さないのである。ありったけの家、橋やとタワーなどの建造物、車が所狭しと並べられた箱庭表現は子どもの箱庭としては特異で、大人っぽさを感じさせる。

 生まれてすぐから病院や施設で過ごす子どもたちは看護師さんや保育士さんや医師たちを親として成長してくる。子どもを世話する担当者はある程度決まっているだろうが、時間によって、日によって担当者が交代する。保育は複数の養育者たちによる仕事として行われる。生みの親による育児と、保育者による保育にどれほどの差があるかわからないが、子どもたちの素直な目から見たら違いがあるのかもしれないと考えさせられた。子どもたちにとって保育者の保育はどのように映ったのだろうか。看護者や保育者が子どもたちにどのように見えたのか、今回の二人の子どもの箱庭は今日意味深い疑問を投げかけてきた。

 私には彼らの箱庭を詳しく説明することはできないが、そこには家や車がたくさん置かれていた。

 素直で率直な子どもの心の目で見たとき、看護師や保育士の姿は、家や車のように見えているのではないか。私の心の中にそのような想念が浮かんだ。家や車は中に人がいるものである。中に人はいるがどんな人かわからない。家や車のデザインで推し量るしかない。しばしば、直接には心の通じない相手なのではなかろうか。いちいち呼びかけて表に出てきてもらわないと心が通じない存在なのではないかと考えた。人間性をむき出しにしている生みの親と、時間で働く人では現れ方が違うのではないかと思った。

 人の代わりに家や建造物を置いてある箱庭の世界から想像すると、病院や施設で人生が始まった子どもは、普通の家庭で育った子どもたちよりもいっそう人の顔色をうかがい、人に迷惑をかけること無く、いつもよい子で生きていくのではないだろうか。自分の殻の中に閉じこもり、いつもにこにこしてご近所付き合いをしている。早くから社会的付き合いをこの子たちは覚えこむのかもしれない。

 そのような子どもたちが思春期になって本当の自分を出したくなった時、ほんとに大変厄介な存在になるかもしれないと施設長は心配していた。思春期になって自分を出し始めると手の付けようがなくなるかもしれないと心配する。警察沙汰も起こりかねない。子どもも保育士も不幸になる。今、多くの施設で、子どもたちは管理しやすいように、自分を出さないようにしつけられているから、おとなしく育てられた後に、社会に出て自由を知った子どもたちの行く末が心配になる。私はたまたま心理相談室にいるので、途中で自分の在り方、生き方に目覚めた人々に会う。最近青年期や中年で発病するうつ病にそのような状況を見出すのである。青年期や中年になると爆発的エネルギーはなくなるので、問題は小規模だが、最近の自殺の増加を思うと、このような幼い時から他人に遠慮した、気遣いばかりの人生があるのかもしれない。

 生まれた時から親や隣人に気を使って成長した人が、一生の間、一切の個人的な感情を抑え込んで、いつもニコニコと幸せな顔を見せながら生きることは可能だろうかだろう。一生の間何も問題を起こさず人生を終わっていく人もずいぶん多いに違いない。適度な人間関係守られて、安穏につつがなく生きていくことがいかに大切かを考える秋の夜になった。