愛についてⅠ

 愛するという言葉はよく使いよく聞くが、愛とはなんだろうと考えるといろいろとあって難しい。この冬休みから瀬戸内晴美の『岡本かの子』と円地文子の『女坂』の二冊を読んで愛について考えさせられた。その頃ある本を手にとって開いてみると夏目漱石の『こころ』の一節が引用してあって、その引用の部分が私の疑問に一部答えを与えてくれた。以下は『こころ』からの引用である。

 「・・私は今でも固く信じているのです。本当の愛は宗教心とそう違ったものではないということを固く信じているのです。私はお嬢さんの顔を見るたびに、自分が美しくなるような心持がしました。お嬢さんのことを考えると、気高い気分がすぐ自分に乗り移って来るように思いました。もし愛という不思議なものに両端があって、その高い端には神聖な感じが働いているとすれば、低い端には性欲が働いているとすれば、私の愛はたしかにその高い極点を捕まえたものです。私はもとより人間として肉を離れることのできない身体でした。けれどもお嬢さんを見る私の眼や、お嬢さんを考える私の心はまったく肉の臭いを帯びていませんでした。」

 この『こころ』に述べられた漱石の愛の理論によれば、愛というものには不思議な両端があって、一方は肉の臭いのしない高尚な愛が、もう一方には肉そのものの愛がある。前者をアガペ、後者をエロスということもできよう。エロスは現代では普通に氾濫しているのでエロスはわかりやすい。けれども肉体を持つ私たちは身体から離れ肉の臭いのしない愛はわかりずらい。アガペはあまり日常語とはならないのではないか。

 岡本かの子と夫一平の愛を見ると、夫一平は長男太郎が生まれて後、放蕩三昧し家計は火の車となり、後かの子も恋人を家に引き入れ、複雑な家庭生活が続いてのっぴきならない状態になる。二人は宗教に救いを求めて深く入って行った。その結果、一平は妻かの子と性的な関係をかの子の死まで持たなかったというのであるから、一平の愛は極めて徹底したアガペであるといえる。一方妻かの子は、宗教的には浄土真宗に惹かれ、恋人との関係に深く入り芸術活動もおこなっていった。エロスに浸りながら歌を詠み、小説を書き続けることができたことは注目に値する。男性は女性とのエロスの関係に浸ってしまうと精神的な、内面から創造的なものを沸き立たせるような創造活動はできなくなるのではなかろうか。夫一平はかの子とのアガペの関係を保ちながら当代一流の漫画家の地位を保ち続けることができたのではなかろうか。

 円地文子が『女坂』で描いた世界では夫はお役所の仕事で、役所の人間関係で苦労を女性たちが支えたのかもしれない。

 政治の世界では、ある首相の恋人だった人が首相の死後数年経って本を書き、その関係を明らかにした。この告白から考えると、首相は恋人とその養母と親密な関係にあった。恋人は舞踊の名人で歴代の首相も色紙を贈って関係を求め、それをことわるのに気を遣ったとあるので、踊りが上手で人柄もとても良かったのであろう。本の文章からも察せられるところである。首相との関係はエロス的であったが、首相のもてなしの会に出て人々を楽しませ場を引き立てたに違いない。その暖かいやさしい人柄はきっと首相の幅広い人間的なところを広げたであろう。彼女は首相が人間関係に向かっていくときに彼女のエロスが必要だったと書いている。男性は性的にすべてが受け入れられると感じたとき外での人間関係で受容的に積極的にかかわる勇気が出てくるのではなかろうか。

 人間関係を積極的に開いていくためにはアガペはほとんど役にたたない。エロスが必要である。人は生まれたときから肌と肌のふれあいである愛着関係によって人間関係が開かれ、それは年をとっても変わらない。従って社会的に活動する男性にとって恋人が必要になるときがある。それはエロスレベルのものである。

 アガペの愛は精神的であり、精神世界の人間関係では広がりうるが、エロスレベルでは広がらない。知的に高度に発達したアスペルガータイプの子どもたちに異性愛が生じにくいのはそのためであると思う。異性愛もアガペレベルに止まるのである。

 首相は恋人の養母とも親しい関係を持ち、仕事帰りには彼女を訪ね、その養母とも様々なことを話していたということである。彼女は聡明な女性で世の中のことについて適切な判断のセンスをもっていたのではなかろうか。女性の中には実際の人間関係にはかかわらないが、人間関係についての冷静で絶妙なセンスを持っている人があって、この首相のような熱血タイプの人には良いパートナーとなっていたのではなかろうか。エロスとアガペのコンビが支えていた礼である。

 その後、某元幹事長の恋人が関係を赤裸々に告白した。その関係の内容を見るとほとんどエロスの世界に止まっている。幹事長の役割は日本の将来というビジョンを考える首相の仕事に比べると、党内の派閥の人間関係に縛られるのであろう。複雑な厳しい人間関係を乗り切るのにエロスレベルで全面的に受け入れてくれる女性があると良いのであろう。ただこの幹事長はこの女性の果たす役割を低く評価しすぎたのではないかと思う。エロス的に支える恋人に対して支えられる人は充分なサポートをすべきであると思う。例えばその恋人の一生を支えるようなサポートが必要である。小説家井上靖の恋人は井上靖の死後数年経ってその関係を告白した。その告白には別れるとき貰った自立の金はすべて返したと書いてあった。彼女は別れた後一人で生きていかねばならないので苦労した。幸い友人たちに支えられ幸せに生きることができたという。このような恋人の側の告白を見ると支えられる方は恋人の一生大事にする覚悟が無ければならない。そうすれば恋人からも一生をかけた精神的な支えやエロスの温かい抱擁が与えられるのではないか。

 現代の女性の社会的な活動は目覚しく発展してきた。社会的に独立して働く女性は、仕事の面でも、また社会情勢の判断の面でも話のできる相手がほしいであろう。特に、女性は内面のことを語りたい性質である。内面で考えて発酵させるよりも、人に話すことによって何かを見出していく方ではないか。

 漱石は愛とは宗教心のようなものであると言い、「お嬢様の顔を見るたびに、自分が美しくなるような心持がしました。お嬢様の事を考えると、気高い気分が乗り移ってくるように思いました。」と書いている。私たちが仏様を見ると、慈悲と平安が乗り移ってくるように思う、そこに信仰が生まれる。それと同様に素敵な人に会うと自分のこころがより高められ、より広くなるように感じるだろう。そこに愛が芽生えるのだ。自分を高めるような人にめぐり合いたい。自分に安定感と孤独さを癒してくれる人にめぐり合うことそれが愛である。そういう愛にめぐり合いたい女性が最近多くなってきているのではなかろうか。ある程度社会的な経験をもった中年女性が抱える心の問題である。社会的な経験の無い、専業主婦の女性も子育てが終わって心のゆとりができると精神的な満足が得たい。そいう女性たちの気持ちを文化センターや市民講座が満たしているのだが、やはり自分にしっくりとするものを求めたくなるはずである。特に仕事を持つ女性は仕事に関連してサポートを見出したいだろう。

 ある女性は結婚と恋愛を別にしたいと言った。30年も前のことである。子育てだけでは満足できない。仕事をしていて、仕事の話も聞いてもらいたいし世の中のできごとのことも話したい。その女性は問題解決の手助けのアドバイスがほしいというよりも、出会いの中で自分を向上させものごとに主体的にかかわって生きたいのであった。

独立的な女性たちが、結婚と恋愛を分け、家庭生活と外の生活を独立的に持っていくような世の中になったら一体どうなるのだろうか。

 岡本かの子は今世紀の前半に結婚と恋愛を一つの家で実現した人であった。かかわった恋人は岡本かの子とともに過ごしたときが良かった、後は余生であるとさえ感じていた。

 一つ家の中で結婚と恋愛を実現するのは女性が強くなった現代でもよほどのことがないとできないが、恋愛を外で行えばそれは可能であろう。かつて男たちは妾をもち生活を広げていた。現代は女性が自立的になって恋人との関係でこころの満足と精神的な向上を求めていくことがすでに始まっている。男性が女性を支えることも男女平等から自然に生じてくることであった。これからのどのように変化していくだろうか楽しみである。

 

 

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