スーパーバイザーとスーパーバイジーのずれ

 昨年はほんとにいろいろな面白い本に行き会った。織田尚生・大住誠共著『現代箱庭療法』(誠信書房)もその一つである。この本は前にも紹介したことがあると思うが、この本を読まれる人のために書いておきたいことがある。

 本書は織田尚生(敬称略)と大住誠の共著で、老松克博の序文が附せられている。

老松は序文で織田の理論を手短に紹介して、「クライエントとセラピストがおのおの真剣に想像活動(箱庭制作と瞑想)を行うと、両者の中間領域に変容と創造のための器(錬金術的な容器)が布置される。この器は両者の内的経験が重なり合っているので、そこでセラピスト自身が経験する癒しは、共時的にクライエントにもたらされる。」とまとめている。

 老松は「両者(クライエントとセラピストのそれぞれの想像活動)の内的経験には驚くべき一致が見られ、それがクライエントにとって不可欠な助けとなる」と述べ、「この一致現象は・・・ジョイント・アクティヴ・イマジネーションという技法を用いた面接でもしばしば見られ、やはり重要な治療機序の一つになっている」と言っている。

このような治療者がクライエントの箱庭制作のような創造活動と平行して自らも想像活動を行うことがユング派の新しい技法として行われているらしい。私は老松の研究論文を読んでいないのでわからない。

 私はこの本の理論編を読んでまったく心理臨床の実際的なものが連想されなくて、著者織田が必死に相互想像法を理論づけよとしているという印象を持った。老松が「序にかえて」のなかで織田の「理論編」を「みずからの血のにじむような内的経験をもとにしたオリジナルな作業であった」と評していることがまったくピンと来なかった。多分大住のスーパービジョンをしながら治療者が瞑想することを必死に理論づけようとされた、そこには血のにじむような内的経験があっただろうとは思った。

 しかし、読んでいてその理論づけがもう一つすっきりしないのである。特にクライエントと治療者の想像内容が一致したとき治癒が生じるという考えは、治療者が問題を整理するとクライエントも心が調うというふうに因果論的に考えやすいのである。

 一方、大住の事例編を読むと、事例のはじめに書かれている理論的な見方には織田の理論が出てくるのだが、事例の実際のプロセスの中にはスーパーバイザーの関与を思わせる記述は一切ない。織田も大住のスーパービジョンにおいては瞑想していたのであろうか。その点をまだご存命の大住に聞いてみたいところである。織田のスーパービジョンにおける想像のことはまったく出てこないのでスーパービジョンでは想像活動は行っていなかったのではなかろうか。

 スーパーバイジーの大住はスーパーバイザーの織田を尊敬して何度も織田、織田と出てくる。スーパーバイジーはこんなにスーパーバイザーを奉るのかと思った。そういえば私も師匠にこだわって離れられない。

 師匠河合隼雄先生は私たちの事例から理論を立ち上げることはされなかった。先生はクライエントの仕事や治療者の仕事を明らかに示されるだけだった。そして先生はしばしばご自身の事例を出されたものだった。

 織田の瞑想面接法は、あとがきを読むと明らかに、大住の事例に教えられて理論化されたものである。大住と織田の最初の出会いが起こったときすでに大住は瞑想面接法の事例(第一次例)をまとめ発表したのである。織田はそこから学んだのである。そのことを前書きに織田は書くつもりだったかもしれないが、本文中にはそのニュアンスはまったくない。

 織田は大住の瞑想面接法を十分に理解していなかったようだ。大住はカーテンを引いて隠れていたわけではない。大住は見ないでほしいと言われたので後ろを向いて瞑想していたのである。5事例のうちどれもカーテンは引いていいない。こう考えると織田の理論と臨床経験の不一致がますますわからなくなってくる。

そういうわけで、本書の事例編をしっかり読まれることを進める次第である。

 

 

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