オペラ『ヘンゼルとグレーテル』を見る

 先週月曜日からメトロポリタン歌劇場のオペラの特集があり、その中の『ヘンゼルとグレーテル』を見ることができました。アメリカではどのような演出になるか大変興味があったのです。

 忙しいので全部をじっと座って見ることはできなかったのですが、見たところは偶々お菓子の家でお菓子を食べるところと、最後、台所で魔女がグレーテルを扱き使い、ヘンゼルに美味しいものを食べさせ、太らせようとしているところからです。

 お菓子の家では、真っ赤な背景の中央に穴があってそこが口になっていてケーキが出てきます。そのイメージはまるで胃カメラで覗いた噴門部でそこに口がついているのです。グロテスクでした。

 煤けた台所では、テーブルの上にはケーキやイチゴセーキなどが沢山あり、アメリカの喜劇に良くあるパイの投げ合いのようなどたばたの情景が繰り広げられます。最後に魔女はかまどに押し込められ焼き殺され、ヘンゼルとグレーテルは魔女が唱えていた呪文を唱えて、捕らえられ魔法をかけられていた子どもたちを解放します。両親も出てきて、全員の喜びの大合唱になりました。

 そこに丸焼きになった魔女が運び出されました。チョコレートをかけこんがり焼きあがった魔女の丸焼きでした。それを取り囲む子どもたちも親もみんなナイフとフォークを手に持って、丸焼きの魔女を食べようとしています。

 私はこんがり焼けた丸焼きの魔女ケーキから魔女が魔法を解かれて出てきてみんな仲良く大合唱のうちに幕になることを期待しました。しかし、焼きあがった魔女のお菓子は大柄な魔女が入るには小さかったのです。

 ヘンゼルとグレーテルは魔女の手と腕をもぎ取りみんなで今にも食べんばかりのところで幕になったのです。

 私は仰天しました。アメリカの『ヘンゼルとグレーテル』はグロテスクな胃袋のようなお菓子の家に入り、カニバリズムで終わるのか!と。悪は徹底的にやっつけて後はケーキにして食ってしまうのかと気持ちが悪くなりました。

 チューリッヒ劇場で数年前に演じられた『ヘンゼルとグレーテル』は子供向けを意識しての演出だったせいもありますが、子どもたちを殺そうとした両親も、そして、二人を殺して食べようとした魔女も最後に入ってきて喜びの合唱になり、みんな幸せになって、不思議な安堵感に浸ったことが思い出されます。

 チューリッヒ劇場の『ヘンゼルとグレーテル』は如何にもおとぎの世界という舞台装置で、お菓子の家は本当においしそうで楽しいつくりでした。メトロポリタン歌劇場の魔女の台所はおいしそうな本物のケーキやセーキが沢山盛られていて、それは如何にもおいしそうなのだが、全体に煤けて暗く、パンのように焼き上げられた子どもたちの立像は不気味でした。それは物語の筋から当然のことですが、最後はヘンゼルとグレーテルは魔女の手と腕をもいで手に持ち、みんなナイフとフォークで魔女を食べようというのです。カニバリズムを思い起こさせ、如何にも現実的で、気持ち悪くなったのです。悪者は徹底的にやっつけてしまわないと気がすまない西部劇の世界を連想させます。

太平洋戦争に勝利したアメリカは敗戦国日本を人道的に扱い、私たちは救われました。朝鮮戦争では多くの犠牲を払い韓国を守りました。しかし、それからさらに西に進んだアメリカはベトナム戦争で多くの犠牲者を出し敗れました。圧倒的な戦力を持つアメリカがジャングルの中をチームワーで動くゲリラに敗北したのです。メルビル作『白鯨』で白鯨を追いかけるエイハブ船長が南シナ海で海に引き込まれ死んでしまったことが思い出されます。

 アメリカはベトナムにも懲りず、湾岸戦争を起こし、イラクで戦争を起こし、今ではアフガニスタンでタリバンを攻撃しています。悪はやっつけろという大合唱を背に、戦い続けているのですが、そこにはカニバリズムにも近い悪がひそんでいるのではないかと思いました。

 これは私たち心理臨床家も考えていかなければならないことだと思います。子どもを庇うあまり、親を非難し、祖父母も非難するとき私たちは同じ過ちを犯しているのではないでしょうか。

 

 魔法が解けて、悪い両親も魔女も解放されてみんな楽しく生活する世界を考えて生きたいものです。