孤独を癒すもの 妄想

 妄想は統合失調症にも、うつ病にも出てくる。妄想だけが異常で他はまったく普通というものもある。パラノイアである。

 私の叔母さんは「家に泥棒が入る」としょっちゅう言っていた。年金があったのかどうかわからないが、生活するだけのお金はあったらしく相当の歳まで一人暮らししていた。80歳を過ぎてホームに入り、90歳過ぎて亡くなった。妄想型の統合失調症だったのか、パラノイアだったのかわからない。理知的でしっかりしていて、「家に泥棒が入る」という以外に私にはおかしいところは見えなかったのでパラノイアだったかもしれない。

 妄想のために日常生活に支障をきたすようになると自我の現実吟味が弱くなったということで統合失調と診断されるかも知れない。私の叔母さんは歳がいって身体が不自由になったのでホームに入れられた。それまでは何とか自分で生活できていたから立派である。

 ある中年婦人で近所の人が私の悪口を言っていると言って精神科を受診した。彼女は独り身だったのですぐに入院となった。入院して落ち着いたところで心理検査のために私のところへこられたので、近所の噂は気になりますかと問うと、妄想や幻聴はきれいになくなっていた。人間関係に包まれ孤独でなくなると妄想は消えるものだと思った。入院してもなお続く妄想や幻聴の背後には、人間関係に包まれてもなお孤独な自我があるのではなかろうか。それが統合失調症ではないか。自我の解体というよりも、人間関係で癒されないほどの孤独な自我を考えてもいいのではないかと思う。

 自我解体というと悲惨な感じがする。統合失調症も統合が失われるというわけで、混乱した状態像をしめしているのだが、本当は孤独な自分を隠すために、あるいは、恥ずかしさのために引きここ持ったり、おかしなことを言ったりしたりしてごまかしているのではなかろうか。心の奥にはものすごく純粋な心があるような気がする。それは何故かと言えば、統合失調症を研究する精神科医の方々にすばらしく純粋な方が見受けられるからである。研究者と被研究者の間に親和性がないと研究が成立しないからである。

私は退職して孤独になった。だからこうして孤独を癒すためにエッセイを書いている。これに反応が無かったら私は孤独になる。HPへのアクセス数が増加する限り、私はまともなことを考えていると思っていいのではないか。

 私が誰からも注目されなくなり、孤立したらきっと私の叔母さんのようにパラノイアになるのではないかと思う。叔母さんの妄想は泥棒が入るというものだった。この妄想というか、イメージは思春期に特徴的なものである。また、老年に財産が減り続けていくところに生じる妄想かもしれない。思春期の妄想をそのまま持っていたのか、老年期に抑うつ的になって出てきたものか、判らない。

 

 私が孤独になって妄想的になったらどうなるのだろうか。そのときはきっとボケも来ているから私は妄想に無意識になるだろう。出てくるものはきっと攻撃的なもの、あるいは愛の反対、嫉妬が出てくるに違いない。嫉妬妄想のパラノイア、これが私の潜在的な狂気である。これに対する一番いい治療法は素敵なやさしい女性に出会うことである。自分に都合のいいことばかり考える私である。この自己中心性もパラノイアの基礎である。