愛するということ 愛は協力である

 エーリッヒ・フロムの『愛するということ』(紀伊国屋書店)は隠れたベストセラーということである。長年ずっと途切れなく出ている本である。

 この本は恋愛のことはあまり書いてなくて、人間関係の基本についての心理的なダイナミックスが書かれていたと思う。

 人には自尊心があり、そのなかで自分の人も認める部分がある。それを合理的自尊心と呼ぶ。その自尊心の程度に応じて人は本当に人を愛することができるということが書いてあったと思う。

 合理的自尊心が乏しいとき、人は相手を尊重することができない。相手を低く評価し非難攻撃する。友達をいじめる子どもは自尊心はもっているが、合理的自尊心が乏しいのである。本当に自分が満たされていない、愛されていないとき、人は自分を愛する代わりに人を愛しようとする。それはどこか無理をした、過剰なサービスになりやすい。愛するには適度な愛し方があるはずである。自分が愛され満たされていると、相手へのサービスも箇条にはならないはずである。愛は多ければ多いほど良いというわけではない。

 愛とは何か

 愛とはセックスであると若い男は先ず考えるだろう。

 男はセックスをすると結婚しなければならないと考えるだろう。そう考えないでいたずらに相手を変えていく男は誠実さがなく、その場そのときに態度を変えていくのではないかと思われる。それは女性との関係に限らず、男同士の関係でも仕事上の関係でも同じようなことが現れてくるだろう。

 一方、女性はセックスをしても必ずしも結婚しなければならないとは考えていない。それほど心を許していなくてもセックスはできてしまう。しかし、それが十分満足のいく経験になっているかどうかは疑わしい。女性は心から許していないと十分な満足にはいたらないのではないかと思う。調査したわけではないから確かではないが、女性のカウンセリングから行き着いたところはそうである。あくまで私の個人的な判断であるが。

 セックスは十分な愛がなくても成立し、子どもができる。子どもができたから結婚するというカップルは少なくない。このようなカップルはセックスを糸口とし、子どもで結ばれ、愛の成就に向けて歩みだしている。そして時には結婚後何年もたってやっと十分な満足のいく性関係が成立することもあるだろう。

 援助交際や風俗店での性的な関係ではほとんど男性の一方的な満足で終わっているのではないかと推測される。

 このようなことであるから、性的な関係で愛を測ることはできない。

 恋愛は女性のあこがれである。恋愛は愛であるか。確かに愛である。しかし、長年の恋愛の末に結婚にしたカップルの成田離婚がありうる。2年の恋愛の末、2週間で別れたという人があった。同居してはじめて相手のわがままさがお互いに受け入れられず、別れることになったのである。なぜそれがわからなかったのかと思う。

 恋愛の期間は、互いにわがままを抑え、いつも恋愛の幸せな夢を育んで協力しているのであろう。それが結婚したと単に抑制がなくなり、わがままがでて、互いにがまんしきれなくなるのである。それが成田や新幹線のホームで爆発的に起こることがあるのだ。

 恋愛において愛はあるが、長続きするとは限らない。

 ある人が次のようなことを教えてくれた。

 彼と喧嘩しなければならない事態に立ち至った。それで真剣になって喧嘩した。もう別れようかという気持ちになった。それからしばらくして自分の恋愛感情が消えていることに気がついた。それと同時に、自分は彼ともっと深い関係に入っていると感じたという。

 その人は恋愛を超えてすでに結婚関係に一歩踏み出しているのではなかろうか。

 この事例から考えると、愛とはお互いに自分を深く生きるために真剣に話し合い協力し続けていくことではなかろうか。結婚式の挨拶で熟年者が時々夫婦喧嘩をしっかりとやってくださいと言われることがある。夫婦喧嘩は犬も食わぬという諺がある。それは経験に基づいた愛の形ではないかと思う。

 

 喧嘩だけではしばしば不幸な離婚に至ることがある。そう上にお互いの協力の精神が必要だと思う。夫婦喧嘩は犬も食わぬでは救いがない。喧嘩は危険なので、真剣な話し合いと、協力の精神がいるのではなかろうか。愛と言う以上、やはり協力が大切だろうと思う。したがって、愛は協力であるとしておこう。