何もしないことに全力をつくす

 河合隼雄先生は京大の定年退官講義がNHK教育テレビで放映されたとき、最後に「何もしないことに全力をつくす」と自著に書き、署名された。その場面がとても印象に残っており、ビデオで再生されるように甦ってくる。先生は以前にも同じことをお書きになっていた。定年退官講義では、これまでに出会った恩師とも言うべき人々について語られた。高校のときの国語の先生、B.クロッパー先生、M.スピーゲルマン先生を紹介され、チューリッヒのC.マイヤー先生にユング研究所で何を学んだとき聞かれ、三つのC、Complex, Commitment, Constellation(コンプレックス、関与、布置)がわかったと答えられたということであった。その他、絵本作家長新太さんや鶴見俊輔先生を挙げられた。それらの先生たちから学ぶことが多くあって、今自分がここにあり、得た結論は「何もしないことに全力をつくす」と言われたのである。先生はいろいろ沢山の言葉をもっておられる中で、特にこの言葉を最後にお選びになったのだから、私はこのことをしっかりと理解しなければならないとそのとき思った。

 河合先生もずっとずっと昔、無為にして為さざる無しという言葉を講演で使われたことがあると記憶している。しかし、その後あまり使われなかったと思う。

 老子には無為にして為さざる無しという言葉がある。老子第37章「道は常に無為にして、しかも為さざるは無し。候王若し能くこれを守らば、万物は将に自ら化せんとす。・・・天下将に自ら定まらんとす。」(老子 金谷治 講談社学術文庫1278)

 老子のこの部分を読んでも全くわからなかった。何もしないことを猿真似しても始まらない。

 心理療法の実際において、クライエントに対して実際に、出きるだけ何もしないことを主張しておられた。このやりかたがなかなか理解できない私は、反対に何でもやってみると考えて数年間やってきて、やっぱり河合先生の何もしないやり方が一番いいのではないかと思うようになってきた。事例の全体の状況と経過を見ているとそんな感じがしてきたのである。

 山本有三の小説に『無事の人』がある。この無事の人とも違う。

 何もしないとはどういうことかがわかりはじめたところに、ピタウ神父とのアッシジでの対話が本になって出た。『聖地アッシジの対話 聖フランチェスコと明恵上人』河合隼雄・ヨゼフ・ピタウ 藤原書店 2005である。この本の中に、何もしないことについて沢山書かれていた。

 根源に直接向かう姿勢というところで、キリスト教を改革しようとする人々は教会を離れて改革しようとするのに対して、「聖フランチェスコは、カトリック教会の中にあって、自分の生き方をする。」という指摘があり、明恵上人も同じであるとあった。

 つまり、情況を改革しようとする際に、情況の中にあって自分の生き方を徹底する方向に向かうのである。

 河合先生はクライエントとの関係の中にあって、クライエントに変化を求めることをせず、自分の内面を徹底して、自分の生き方をする。そこから新しい生き方が生まれてくるのを、クライエントと共に待つのである。

 この態度は全く治療者中心であるが、クライエントにかかわって、変化を求めないという点では真に来談者中心療法と言えるのではないかと思う。相手に何くれとなく世話を焼く母性的態度ではなく、やさしさを売り物とした誘導的態度でもない。むしろ、かかわり続ける男性的な態度ではなかろうか。おしゃべりのない、無口な、そして困難に耐える男性性、つまり、硬派の男性性がそこにある。

 ロジャーズの来談者中心療法が共感しやさしく受け入れる女性的態度であるのに対して、河合先生の来談者中心療法はできるだけ責任を相手に与えながら、かかわり続ける、むしろ、冷たい男性的態度ではないかと思う。二つは似ているようでありながら、実際は全く反対のものであることに私は気づかされた。

 このように考えてやっと河合先生の何もしないことに全力を尽くすという言葉が私の中に納まった。私のこれで生きたい。

 

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