赤ずきん 養育者の交代劇と女性の飲み込まれやすさ

 『赤ずきん』についての心理学的分析は数多くある。それらを参考にすることも日本の学問のスタイルとしては大変重要であるが、それに習っていると、大体、既存の理論でお話を分析して、これまでの心理学の体系に物語の構成を当てはめて終わりとなるであろう。そうしていると、多くの物語は既存の心理学である精神分析やユング心理学に還元され、物語からそれ以上の発見は出てこない。それならば、自分の思い付きを書いてみるのもいいと考えて、勝手な連想を連ねて見ることにする。以下は大学での講義内容に若干付加したものである。

グリム童話の『赤ずきん』の話あらすじ

 あるところにとても可愛い女の子がいたというところから始まる。

 女の子は特におばあさんに可愛がられて育ち、おばあさんからもらった赤ずきんがとても似合って、毎日まいにちかぶっていたので赤ずきんと呼ばれていた。

 ある日、赤ずきんはお母さんのお使いで、森の奥に住むおばあさんのところに行くことになる。おばあさんは病気で具合が悪いから、お菓子とぶどう酒を持って行くのだ。

 赤ずきんは森の中で、狼に出会う。狼はわき目も振らず歩いている赤ずきんに、森の中には美しい花園があることを教える。確かに美しい花々が咲いていて、花を摘んでおばあさんのところへ行く。

 狼は先回りをして、おばあさんを飲み込み、後からやってきた赤ずきんも飲み込む。

 腹いっぱいになった狼は大いびきをかいて寝込んでしまい、それを聞きつけた狩人が狼を見つけ、腹を割いておばあさんと赤ずきんを助け出し、狼は石をお腹に詰められ死んでしまう。赤ずきんは狩人が作ってくれた狼の毛皮をお土産にもらって家に帰る。

 赤ずきんのお話は若い娘が狼に襲われる話である。昨年は幼い女の子が狼のような男に連れ去られ、殺される事件が起こった。襲われた女の子の年齢が幼く、その上その亡骸が捨てられていたので特に注目を浴びた。しかし、思春期に入った女の子の性的被害事件は新聞種にもならないくらい多いのではなかろうか。このような若い女性の性的な被害はどこの世界にも多く、従って、赤ずきんは世界的に良く知られた物語になっているのではなかろうか。

 以上のような解釈が、この物語の一般的な解釈である。それに付け加え、以下のようなことを考えてみた。

 赤ずきんはおばあさんに可愛がられた女の子である。つまり、おばあさん子である。

 そして、赤ずきんが良く似合う子どもでいつも赤ずきんを被っていた。

 ずきんが赤いというところから、心理分析では女の子が初潮を経験し、身体が女になったと解釈される。いつもずきんを被っていることも、定期的な生理の発現と考えられる。

 一方、いくら赤ずきんが似合うからといって、女の子が毎日まいにち同じものを被っているということは女性の装いの仕方としてはワンパターンすぎるのではなかろうか。赤ずきんは装いにおいて頑固な性格、柔軟性のない、ものの見方が偏狭な性格ではないかと考えられる。

 しかし、考えてみれば、グリム童話が語られた時代は貧しく、女の子でも毎日同じものを着ざるを得なかったかもしれない。頑固な柔軟性のない性格というのは現代的な解釈になろう。

 ずきんという頭につけるものがおばあさんにもらったものというところから、この子どもはおばあさんの価値観や考え方に則っていると考えられる。つまり、おばあさん育ちで、おばあさんの側につき、精神的にはお母さんから離れていた娘と見做すことができる。

 おばあさん子が思春期に達する頃、おばあさんは大体子育てに疲れ、引退する。物語では、おばあさんは病気になって森の奥に住んでいる。お母さんはそこへ赤ずきんを見舞いに行かせる。おばあさんにはもはや頼れないよと言うわけだ。

 おばあさんに頼れなくなった娘はお母さんのところに帰って、母娘関係を緊密なものにしなければならない。ここで養育者の交代劇が展開される。

 赤ずきんは一人で森の奥に住むおばあさんのところにお使いに出される。森の中には何が住んでいるかわからない。獣に食われて死んでしまうかも知れない。そういう恐ろしいところへ、母親の守り無しで、一人で行かされる。これはおばあさんの守りを失った娘には相当きついことである。また、母親の冷たいやり方、「一人で行っておいで、あなたの大好きなおばあさんのためだから」というわけである。ここに母と娘の葛藤があるはずである。

 実際におばあさん育ちの娘が、思春期になって母親の元に返るというのは簡単な事ではない。娘はおばあさんに懐いている分、母親に馴染みがない。それを今から取り返さねばならない。しかし、母親と娘のずれは大きい。それに二人とも気づかない。

 母親は「あんたは今までおばあさんにすごくかわいがられたではないか、それで何が不足と言うのか」と考える。一方、娘は「私はおばあさんには可愛がられたが、お母さんにはほとんど可愛がられていない。私は損をしている」と。ここに母親に可愛がられて育った妹がいると、妹が余計にうらやましい。このずれが母親にはぴんと来ないことが多い。また、ここには嫁姑の葛藤が働いていることもあり、事態はより複雑化する。

 現実にはこの事態で、娘は母親が悩むような問題を引き起こし抵抗することがしばしばある。不登校とか進学したくない、万引きなどの事件を起こしたりする。私のことを少し考えてよというわけである。娘がこのような問題を起こすことによって、母親を悩ませ、二人は話し合い、言いたいことを云って関係が修復されていくはずである。

 赤ずきんは森の中で早速狼に出会い、話をして、森に住む狼に森の花園の美しさに目を開かされる。頑なな態度で、狭い視野しか持たなかった赤ずきんに今までにない視野が開かれ、道草を食う羽目になる。

 おばあさん子の女性が思春期になって、性的な衝動に目覚め、道草を食う、つまり、期待されていない行動を取り、非行に走る可能性を意味している。

 この点で重要なことは、狼との出会いによって、森の中に美しい花園があることに赤ずきんが気づいたことである。今まで、おばあさんの言いつけで、可愛いばっかりで、頑なな態度しか持たなかった娘に、広い視野が開かれ、自分の関心にしたがっていく柔軟な態度が出てきたことは注目に値する。女性の社会への目覚めはこのようにして始まる。

 しかし、この後、おばあさんも赤ずきんも共に狼に飲み込まれてしまう。

 親から離れ、見知らぬ社会のなかで、一人の生活を始めた若者たちが新興宗教的な集団の誘いに乗せられ、組織の中に飲み込まれていく例は少なくない。新興宗教の中には、一歩外から見れば、集金能力がとても高いと思われるものもある。かつて、大学生が多く引っかかったねずみ講はその典型的な例である。そこではお金儲けに関心が高い若い男性が上手い話に乗せられ、組織に飲み込まれていった。これらの集団が宗教的な装いをし、中身は狼である。そのことは、小学校以来人は善なるものだ、信じなければと教えられてきた人にはわかりにくい。精神的に未発達で、社会的な危険がわかりにくい若者たちが新興宗教的集団の教義に説得され、今までに考えたこともないような世界があることに目を開かされたように感じて入信していく例が多くあるように思われる。それは外から見ると、まるで狼に飲み込まれていくような感じである。一方には、社会の狼が怖くて、家から出られず、どのように人とかかわったらよいかわからないで、閉じこもってしまう人もあるのだが。

 さらに、女性はだまされやすいということを改めて認識しておこう。

 女性がだまされやすいと言うと傷つけることになるので、乗せられやすいと言った方が良いかもしれない。

 最近の流行って甚大な被害が生じているオレオレ詐欺の被害者がほとんど年配の女性であること見るとわかる。かなりの知的能力と常識的な判断力を持った女性でも危うく、詐欺に引っかかるところでしたと述懐している。オレオレ詐欺があることを知っていて、まさか自分は引っかからないと自負していても、いざその場になると気が動転してしまうらしい。

 こればかりでなく、若さを保つ化粧品、美白に効果的な化粧品、やせに効果的な薬や食品、健康に役立つアクセサリーなどなど沢山ある。健康食品や強壮剤、毛生え薬となると男性も載せられるので女性ばかりとはいえないが。下心のある女性は宣伝に乗りやすく、狼の誘いに簡単に飲み込まれてしまうのではなかろうか。

 このように見てくると、多くの女性は年齢に関係なく、欲望の狼に飲み込まれたまま生きているのではないか。狼に飲み込まれたものはいつどのようにして目覚めることができるのだろうか。

 話が横道にそれるが、筆者が電話相談のスーパーヴィジョンで経験したことを書いておきたい。もう10数年も前のことなので、ここに書かせていただく。

 ある年配の女性から、電話相談に携わるまで、こんなに近親相姦が多いとは知りませんでしたと言われ、驚いた。私の永い臨床経験を省みて、そんな事例は本当に数少ないのである。そこで私はどんな人たちですかと聞くと、ほとんど中高校生の男子で、男性の相談員ではすぐ電話が切れてしまうということであった。

 そのことを聞いて、若い男の子の性の相談はそれはすべて作り話だから、聞かなくてもいいのではないかと答えた。しかし、しばらくは信じてもらえなかった。発達心理学の本にも思春期に達した男の子どもが近親相姦をテーマとした作り話に興じ、性的なファンタジーに耽り、手淫をしているなどとは書いてないからである。しかし、男性の性的な関心の発達段階の最初のものとして近親相姦のファンタジーは少なくないはずである。しかし、本に書いてないことは俄かには信じてもらえないのは悲しい。狩人の言葉とは本に書いてなければならないのである。

 これは日本だけでなく、世界中の電話相談で起こっていることで、アメリカの電話相談では性の悩みの相談は受けなくても良いことになっている。ただ、アメリカでも女性は若い男の性の相談がほとんど嘘の作り話であることを見抜くことができないのである。日本の女性も同様である。性の欲望を背景にした嘘の話と、本当の相談の違いが感じ分けられないという問題がある。この点から考えると、狼の企みに乗せられやすいのは女性の普遍的傾向であると言えよう。

 しかし、最近はそのような近親相姦の作り話も大好きと公言できる女性が出てきた。このことは大きな変化だと思う。狼の腹の中で遊べる人たちなのだ。大胆でおおらかな人たちである。ディオニソスを信じる新しい女性の出現である。

 赤ずきんのお話では、狩人が通りかかり、狼の大いびきを聞きつけて、狼を見つけ、おばあさんと赤ずきんを救い出す。

 ここに狩人が登場する。狩人とは、森の動物の習性に詳しい人物である。森の動物とは欲望に従って生きる人間のことであり、その働きについてよく知っている人である。このような人の出現によって、女性は新たに目を開かされる。

 ここには女性が偶々通りかかった狩人に救い出されると言う偶然性がある。偶々通りかかった、誰か賢い人にめぐり合って目覚めるのである。この観点から見ると、女性が良く通う文化センターの役割は大きな意味があるのではなかろうか。そしてこれを充実するために、大学の社会人への開放は大きな意味があるのではないかと考える。

 娘は狩人から赤ずきんに代る狼の毛皮という新しい装いを与えられ、狼に支配されずに人生を送れるようになるのではないか。

 女性はいつも自分のプライドを保つために、いつまでも若く、美しく、やせて、健康で、知的に賢くありたいと望む。そこにつけ込んで一儲けようとして裏で企んでいる狼に飲み込まれてしまう。それは衝動で生きている女性の避けられない運命である。その運命に飲み込まれても、より広い視野を持った人の言葉が耳に入ってきたとき、それに耳を傾けるようであってほしいものである。

 娘は狼の毛皮を持って母親のところに帰る。ここでどんな関係が成立するかは、お話からはわからない。けれども狼の毛皮を着た彼女は母親の言いなりになるのではなく、自分の意見をもって母親と対決し、話合っていくことになるのではないだろうか。

 もはや母親の娘ではなく、母親と対等に話合っていく女性となっているのではなかろうか。