· 

声を認める

 先日、久しぶりにコンサートに行きオーケストラの生演奏を聴いた。前回オーケストラの演奏を聴きに行ったのはずいぶん前、コロナ前だったと思う。

 今回は席がステージに近かったこと、曲目の都合で大編成での演奏(ステージが狭く感じるほどオーケストラメンバーがぎゅうぎゅういっぱい)であったこと、演奏されたのが20世紀の作曲家による作品で、クラシック音楽と聞いて連想されるような優雅な音楽とは異なる挑戦的で激しい曲目だったこと、などあり、ものすごい迫力で、オーケストラの音に圧倒される体験をした。音の洪水に押し流されそうになる感じだ。CDでよく聴いていた曲だったのだが、生の演奏の迫力はCDでは体験することができないとつくづく感じた。今回初めて目の前で演奏を聴き、この曲は本当はこういう曲だったのだと知ることができたような気がしている。

 

 今まで指揮者の動きに注目することがあまりなかったが、今回は速いテンポの曲で、しかも大編成オーケストラでさまざまな楽器があり(これまでに見たことのない楽器がいくつかあった)、指揮者はあちこちに目を配りながらすばやく指示を出し、アクロバティックとも言えるような動きをしていた。その動きに魅了されて指揮者から目が離せなくなってしまった。

 ステージいっぱいの大人数に囲まれてひとり立ち、迫力いっぱいの音の洪水を受け止め、さまざまな楽器が奏でるそれぞれのメロディーをまとめてひとつの方向性に引っ張って行く。オーケストラの魅力と指揮者のかっこよさに触れたような気がした。そしてふと、こんなふうにプロの指揮者ほど器用にかっこよくはやれないけれど、しかし私もこうやって自分の中の様々な声を聞き取り、受け止めながら生きていきたいと思った。

 誰もが「私」というひとりの人間の中にさまざまな声を持っている。こうしたいと強く主張する声があり、それを反対する声もある。そんなことどうだっていいと投げやりに言う声もあれば、なんでもいいから早くやれとはやし立てるような声もある。大きな声に囲まれて、本当はこうすべきなんじゃないかと小さくささやくような声もどこかにある。そういったさまざまな声に囲まれならが、日々私たちはどうするかを考え、行動している。

 単純でわかりやすい意見・声ばかりではない。時にはそれまで知ることのなかった聞いたことのないような声、思いがけない考え、自分のものとは思えないようなささやき、理解しがたいつぶやきが聞こえることもある。なかには自分のものとは認めたくないような声だってあるだろう。しかしどんなに否定したくても、それは全て間違いなく自分のなかから出てくる声だ。

 自分の中の声を全て聞き取ることはできないだろう。感じ取れる声の方向性はいろいろで、それらをひとつにまとめ上げて行くことも至難の業だ。しかしそれでもなるべく自分の声を聞き取り、それを自分の声と認めて受け止めていきたい。音の洪水に押し流されず、的確に指示を出し続ける指揮者を見ながら、そんなことを考えた。

 

〈次へ  前へ〉