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 この相談室を私が引き継いだのはコロナ禍の2020年で、当時は集まって勉強会や研修会を持つことも難しい状況だった。しかし臨床心理士の仕事は相談に来た人の前にひとり座り続けるもので、だからこそ普段は仲間と一緒に勉強することが大事だと思っている。引き継いだからには良い相談室にしたい、せめてスタッフだけの少人数の勉強会だけでもと、すぐにいくつかの研修の会をスタートさせた。

 その中のひとつに「読書会」がある。臨床心理学に関する本を皆で読み、書かれている内容について話し合う会だ。今はノイマンの「意識の起源史」(E.ノイマン著 林道義訳 紀伊國屋書店)を取り上げている。ユングが序文を書いていて、本当は自分もこういう本が書きたかったと言っているが、確かにユングがうらやむぐらい興味深い内容だ。しかし内容は難しい。神話や宗教、文化人類学などの知識も必要になり、ひとりで読むのはなかなか大変だが、皆であれこれと話し合いながら何とか内容を飲み込んでいる。

 先日の読書会で読んだのは英雄神話を分析したところで、ギリシャ神話に登場するペルセウスについて取り上げられていた。神話に登場する英雄は、いつも例えば「竜」のような怪物と戦い、伴侶を得る。ペルセウスも頭から蛇が生えている怪物ゴルゴを倒してアンドロメダを得る。日本であれば、古事記に登場するスサノオがヤマタノオロチを倒してクシナダヒメを得ている。

 今回の読書会で面白かったのは、英雄はいつも真正面から戦いに挑んでいるわけではない、という指摘だ。どうがんばってもどうにもならない相手がいたり、手が出せない(出すべきでない)ようなタイミングがあったりして、そういう場合はとにかく逃げることも必要なのだ。例えば先に挙げたペルセウスも、ゴルゴに対して真っ向勝負をしたわけではない。ゴルゴはそれを見たものすべてが石になってしまうという怪物で、直視できない相手なのだ。ペルセウスは女神アテナにもらった盾を鏡として使い、それに姿を映し出すことによってゴルゴを倒している。

 カウンセリングで自分に向き合い自分を変えたいと言う人は多い。確かにカウンセリングは自分自身のことを深く考えるところで、この相談室のHPにも「良い出会いをするために より良い自分らしい生活を見つけるために 自分自身とより深い出会いをするために」というフレーズを載せている。前室長の西村洲衞男先生が相談室のパンフレットを作ったときに考えたもので、この相談室の方向性を示している。しかし、自分自身と「深く出会う」ということは、何もかも全てを直視することではないように思う。嫌でも直視しないといけないことも確かにある。しかし一方で直視すると石のように固まり、もとには戻らなくなってしまうようなもの、直視することが危険なものもある。

 ペルセウスは女神アテナの助けを得て、直視することなくゴルゴを倒したが、すべてを直視できるのは神様ぐらいで、人間が怪物を退治するには助けを借り、直視を避けて鏡に映し出すことが必要になる。誰のこころの中にも怪物めいた思い、それは例えばふとした時に怪物のように襲い掛かる不安や恐怖であったり、何度とどめを刺しても殺せない怪物のように、抑えても抑えても復活する恨みや憎しみなどがあるが、ただの人間である私たちにできるのは、ただそれがあると知ること、認めること、見つめることだけなのかもしれない。自分の限界を素直に認めて助けを待つ、それが必要な時もあるのだろう、今回の読書会でそんなことを考えた。

 

 

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