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私であること

 この仕事を続けるにつれて、だんだんとテレビを見たりラジオを聴いたりすることが苦痛に感じるようになった。人の声を一方的に聞かされることが疲れる。そういうつもりがなくても、人の話を聞こうとしすぎてしまうのだろう。相手が目の前にいて、その相手と直接のやりとりがあればむしろ疲れない。しかし相手との関りなしに話を一方的に聞かされるだけだと、少ない情報から相手の気持ちをなんとか理解しようと知らず知らず力が入るのだと思う。一種の職業病だと考えて、テレビやラジオから遠ざかって生活をしている。車を運転する時には、人の声が入らない、楽器の数も少なめの穏やかな音楽を聴いていることが多い。

 ただもちろん例外もあって、ギターデュオのゴンチチがパーソナリティーを務めるNHK-FMの「世界の快適音楽セレクション」という番組だけは毎回欠かさず聞いている。約2時間の音楽番組で、あるひとつのテーマに沿った様々なジャンルの音楽(クラシックもジャズも民謡も演歌も)がかかる。聞いたこともないような音楽を知ることが楽しみなのもあるし、ゴンチチの2人の自然で穏やかな話し方が疲れを感じさせず、安心して聞くことができるというのも大きい。もう10年以上も聞き続けている番組だ。土曜日午前の放送でリアルタイムで聞くことはできないが、聞き逃し配信を利用して聞いている。

 先日、その番組内で話されたことが心に残った。昔、ある高名な作曲家に「ゴンチチはこの部分をこうした方がもっともっと良くなる」など音楽的な面において様々なアドバイスをされたことがあったという。それは別に間違った内容ではなかったのだろう。しかしふっと「それをしたらゴンチチしゃなくなるなぁ」と思ったという。結局、アドバイスを取り入れることにはならず、その高名な作曲家でさえも「ゴンチチを直すことはできなかった」と笑いながら話をしていた。

 誰しもが自分自身の中にちょっとしたくせもの、やっかいなもの、自分のものとは認めたくない好きになれないものを持っているだろう。そういうところは自分の問題点、欠点として語られることも多い。しかしよくよく聞いていると、それがその人らしいところであり、別の見方をすればその人の良いところだと思えるようなことも多い。例えば几帳面で何でもきっちりしていないと気が済まない人がいたとする。どんなことにも手を抜けず、適当に済ませることができない。料理をするとなると、白菜を切るにも料理本にあるように丁寧に削ぎ切りをする。一事が万事この調子で、何をするにも時間がかかる。聞いていると確かに大変だと思う。もう少し適当に済ませられれば何より本人だって楽になるのにとも思う。しかし一方でそういうところがあるからこそ、何かをごまかすこともなく、大きな間違いをすることもなく、仕事も確実にこなすことができ、相手の信頼を得られているのも確かだとも思う。長年自分の中にあったものを、まるで外科手術でもするように、急に切り離し、取り去っても、必ずその副反応が出るだろう。どんなものでもそれも含めて全体のバランスが成り立っていたわけで、一部の急激な変化や欠如は必ず全体に影響がある。「こうすればもっと良くなる」とは気軽に言えない。

 カウンセリングで話を聞いていると、「自分を変えたい」という話をよく聞く。実際に行き詰まりを感じているから相談室に来られるのであって、話を聞いていると、今までのやり方ではうまく行かなくなっているから様々な問題が起きている、何らかの変化が求められていると感じるケースも多い。しかし、変えるということは、今の自分を捨てて別の人間になるわけでも、これまでの人生を否定して新しい人生を選択することでもないだろう。

 スーパーに並ぶ野菜のように、どれもこれも同じような形の規格品にしてしまうことがカウンセリングの目標だとは考えない。その規格が、どれほど美しく、機能的であったとしても、私が私であることを捨ててまでそれを目指すことがいつも必ずいいことになるとは思えない。私が私として生きることの辛さもある。しかし私が私として生きることにできるだけチャレンジしていきたい、そんなふうに考えている。

 

 

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