言葉の魔力

長谷川泰子

 

 最近、知り合いの日本在住のフランス人に「“こもれび”という言葉にあたるフランス語はない」と聞いた。こもれびというのはもちろん見たことがあるし、フランス人だってそれを知っている、しかしそれを言い表す言葉がない、日本語にはそれがあってうらやましい、と言う。フランス語にはないので、その情景を表そうとすると「こもれび」と日本語で言う他はないのだそうだ。

 「こもれび」のたった一語であれこれ言うのもどうかと思うが、日本は短歌や俳句などの伝統があって自然の情景や四季の変化に自分の心情を重ねて語ることがしばしばで、自然に目を向けそれを表現する言葉が多くなるのかもしれない。

  ちなみに彼は日本に来る前に「花見」という行為については知っていたが、ただ花を見るということがどういうことなのかピンと来ず、きっとそこには何か神秘的なもの、日本人ならではの「禅の精神」のようなものが存在するのだろうと思っていたそうだ。日本に来て実際の花見を知り、しばしば誘われて桜の下での花見に参加するようにもなったが、ただやはりどうして桜なのか、他の花ではだめなのか、花見というのは一体いつから始まった伝統なのかなど、疑問に感じることはいろいろあるらしい。あれこれ質問をされて、日本人が桜を特別視する気持ちはそれなりに説明したものの、花見の歴史など考えたこともなかった。私自身、当たり前のように春になるとちょっと桜でも見に行こうかという気持ちになるからで、その行為を客観視する視点がないからだと思う。

 以前、ラジオの音楽番組でブラジル音楽についての話があり、「ブラジル音楽を語るのには“サウダージ”という言葉がひとつのキーワードになるが、この言葉を正確に日本語に訳すことは難しい」と言っていたのを思い出した。確かその場ではサウダージというのは「今この場には不在である遠く離れたところにある人・ものに対して起こる感情」だと説明があったように思う。ブラジル音楽は独特の美しさがあるが、ブラジルの人特有の感情のとらえ方・区切り方があり、それが音楽に現れているのかもしれない。

 何かを説明するために適切な言葉があるのとないのでは、気持ちの吐き出し方に違いが出るのではないか。「もやもやした気持ち」を抱えて、なんとなくすっきりしないまま過ごし続けることがあるが、自分でも自分が何をどう思っているか良く分からず、説明もできず、自分の気持ちに自分で振り回される、というようなこともある。例えば、不登校の子ども、あるいはリストカットを繰り返す子ども、子どもに限らず会社に行けない人、万引きを繰り返す人などに、なぜそうなのかと聞いてもはっきりとした答えなどないだろう。明確にならない何か、客観視できない思いを無理に言葉にさせても、思いを吐き出しきることはできず、消化することのできないもやもやは残る。割り切れない、語り切れない、吐き出せない思いはいつかどこかであふれ出て思わぬ行動につながることもあるが、自分が抱えるものに対して本人なりに名前をつけ、自分自身の語りができるようになるまでは、結局は待つしかないのだ。子どもの頃から抱えていた語ることのできない様々な思いを、何十年もたって面接室で初めて語るという人も多い。名づけようもないまま消化できずに蓄積した思いを語るためには、日常とは少し離れた守られた空間、安心できる場が必要になるのだろう。

 

 ところで言葉に関してもうひとつ。最近、知人と話をしていた時に年齢の話になり「老眼鏡」という言葉を使ったところ、最近は「リーディンググラス」という言い方があると教えられた。老眼鏡にしろリーディンググラスにしろ、結局は同じものを指している。しかし言葉によってイメージは全く異なってしまう。リーディンググラスという言葉は、なんとなく知的なイメージも漂う。言葉が変わると、同じものでも急に受け入れやすいものになる。そこにあるものをどう名づけるか、名づけ方によって扱いやすさが全く変わってくるから不思議だ。

 

 

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