関わることで生まれる

長谷川泰子

 

 旅先でドライブの途中に道の駅のようなところに立ち寄ることがしばしばある。休憩がてら地元の農産物などが売られているのをながめたりちょっとしたお土産を買ったりするのは結構楽しい。GWに熊本に行った時に立ち寄った道の駅では有名な熊本の植木産の大きなスイカがずらっと並べられていて、多くの人が次々と買っていたし、馬肉を使った商品などもたくさんあった。馬肉入りのレトルトカレーをお土産に買ったが、おいしいと好評だった。

 たいていの場合、こういうところでトイレを済ませておくのだが、道の駅のトイレに関しては、今でもよく覚えているある体験がある。もう10年近く前のことだ。旅行中にある道の駅に立ち寄った。メジャーな観光地からは少し外れたところだが、海が近く景色の良いのんびりしたところで、人も少なくゆっくり休憩するにはちょうど良い場所だった。まだオープンしたばかりのようで、建物も新しく、スペースも広々している。お茶を飲み、一通りお土産ものなどを見てお菓子などいくつか買い、出発前にトイレに立ち寄った。個室は多く、トイレもきれいで洋式の便器はまだぴかぴか光って見えるほどの新しさだ。気分良く使えると思ったのだが、いざ個室に入ってみると、驚くほど使いにくい。

 トイレの個室の扉は多くの場合、個室の内側に向かって動かすような仕組みになっている。勢い良く開けて個室の外にいる人に扉が当たるのを避けるためだろう。個室に入るときは扉を押し開け、個室に入ってから扉を閉めて鍵をかける。用を済ませて出るときは扉を自分がいる個室内部に引き入れるように開ける。当然のことながら個室内部は便器があり、それに当たらないように扉を開閉するスペースが必要になる。しかし実際に使う場合は更にそこに人間がいるわけで、そのスペースもなければトイレは使えない。そしてその道の駅のトイレは、いざ個室に入って扉を閉めようとしても、開閉できるぎりぎりのスペースしかなく、私が個室内にいると、それがじゃまになって扉を動かすのが難しくなってしまうのだった。便器の横にずれて扉を開け閉めしようとしても、左右のスペースも十分にない。扉を開け閉めするのに一苦労である。個室にはかばんを持って入るし、買ったばかりのお土産もある。そういう荷物もじゃまになってなおさら大変になる。このトイレを作った人は自分がこのトイレを使うことを考えず、トイレを使う人のことも考えず、図面の上だけで考えて作ったのではないかと疑った。

 「私たちのことを私たち抜きで決めないで(Nothing about us without us)」という言葉がある。国連の人権条約「障害者の権利に関する条約」は、この言葉を合言葉に障がいを持つ人たち、当事者が参加して作成されたのだという。当事者抜きで何かを決めることは、いくらそれが悪意のないものであっても当事者にはぴったりしない使いにくいものを押し付ける可能性があるのではないか。

 自分の方が知識や経験がある、立場が上だ、と思っていたりすると、それだけで自分が正しいと思い込むことがある。自分のやり方が一番で自分の意見が正しいと思っていれば、相手の意見を聞いたり話し合ったりする必要性も感じない。相手の意見を聞くことが面倒に感じたり、時間のむだのように思ったりもするかもしれない。しかし相手の意見を聞かないということは、世界に自分ひとりだけで暮らしているようなものだと言えるかもしれない。どれだけたくさんの人に囲まれていようとも自分以外の意見や考え方はなく、聞こうとすらしないのだから、相手はいないも同然だ。人との関りがあるようで、そこには本当の関係はなく、自分だけが世界の全てを埋めているようなものだろう。

 他者の意見を聞くことは大変だ。相手と話し合うこともエネルギーがいる。一方的に何かを与えたり与えられたりしているほうが楽で、そうしていれば自分の知らない何かに触れることもないから不安もない。変化も起きないから緊張もないだろう。しかしそれは同じことの繰り返しに陥る。

 他人と関わること、人と話をすることで自分にはない何かを知る。そこに新しい可能性が生まれてくるのではないか。

 

 

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