長谷川泰子
先日、エレンベルガーの「無意識の発見 力動精神医学発達史」(木村敏・中井久夫監訳 弘文堂)を読んだ。紀元前の時代の原始的なアプローチから始まりフロイトやユングにいたるまでの“力動的精神医学”の歴史を書いた本である。さすがに2000年以上の流れをまとめたというだけあって、2段組構成の分厚い本が上下巻、読み通すのはなかなか根気がいるが、あまり知られていないようなことが書かれていて新たな発見があったり、以前から疑問に思っていたことが分かったこともあったりして、けっこうおもしろく読んだ。
疑問に思っていたこととは、無意識の「発見」というのはどういうことか、である。フロイトによって無意識が「発見された」とよく言われるが、では発見前は本当に無意識なしに生きていたのだろうか。「発見」という言葉には、それまでなかったものを見つけ出すようなニュアンスが感じられるのだが、フロイト以前は、今私たちが“無意識”という言葉で表現するようなものが全く存在しないものとして人々は日々の生活を送っていたのであろうか。例えば原始社会においては睡眠中の夢は神からのメッセージと考えられ、現代に生きる私たちは無意識的な領域が源泉とするようなものでも、自分以外の誰か・何かの作用によって生じると考えられたりしていたようだが、そのような考え方がフロイトによる無意識の「発見」前まで続いていたのだろうか。
エレンベルガーの本を読むと、無意識がフロイトによって急に「発見」されたわけでもないことが分かる。フロイトが若い頃は催眠療法が全盛で、催眠にかけるとふだんは意識されない記憶など(多くはトラウマティックなもの)が語られることがあり、それが症状形成に大きく関わっていることがすでに知られはじめていた。フロイトは催眠を使わなくてもこういった記憶を思い出させることが可能なことに気がつき、そこから精神分析の手法である自由連想を編み出したのである。つまり無意識的なものの存在はすでに知られていたのだが、フロイトによって無意識の概念とメカニズムが定義されたと言えるだろう。
佐野洋子さんがフロイトの無意識の発見について「私は発見ではなく発明なのではないかと疑うのである」(「神様」川上弘美 中公文庫 の巻末にある解説)と書いていたが、確かに、新種の生物を見つけ出すように無意識を「発見」したというよりも、フロイトによって無意識という説明概念が「発明」され、それによってこころの様々な動きが見えるようになり語れるようになったという方がぴったりくる。原始的な社会においては神のお告げであったり、誰かの呪いなどと見られていたりしたようなことや、中世ヨーロッパでは魔女の証だと思われていたりしたものも、無意識という概念によってこころの問題としてとらえることができるようになり、理解可能になったと言える。
少し前に人に勧められて「中動態の世界 意志と責任の考古学」(國分功一郎著 医学書院)を読んだ。中動態、というのは受動態(受身形)とも能動態とも異なる、文法上の“態”のことで、古代のインド・ヨーロッパ語族(英語もこの中に入っている)にはあったものらしい。古代は能動態と中動態が存在していたが、いつの間にか中動態は消えて受動態に吸収されていったということのようだ。中動態は今の日本語や英語にないものなので、私たちにとっては説明も理解も難しいが(例えばWikipediaでは「動詞の表わす行為が、その行為者自身に及ぶ場合にとる形態的特徴のこと」という説明があるが、この説明を読んでも全くイメージができない)、著者の國分自身の説明を借りれば、例えば英語で言う「I was born」という表現はもともと中動態で言い表される状況だという。つまり生まれようという能動的な決断や意志があって生まれたわけでもなく、でも生まれ出てきたのは自分自身で、自分の身に起きたことであり、こういう状況を古代ヨーロッパの言葉では中動態で表現していたのだという。
フロイトの無意識の“発明”によって、それまではむもやもやとしていた何かをうまく説明でき、納得しやすく、人にも伝えやすくなったと言えるが、中動態があった頃には、はっきりと見えて、理解も共感もしやすく、こころにすっとおさめることができた状況を、今は中動態がないことでとらえそこねていることもあるかもしれない。受身でも能動でもない状況、自分からすすんでしたわけでもなく、誰かから直接的な作用を受けてしたわけでもない、例えば「I was born」、私が生まれてこようと決断して生まれてきたわけでもないが、この世に現れ出てきた、この状況を私たちはどうこころにおさめているのだろうか。