藤井日達と夢 講義録

 西村洲衞男先生の1996年11月6日に行われた講義の記録です。夢分析について数回にわたって解説がなされた講義の1回分を、録音されたテープから文字起こしたものです。

 当時この講義の第1回に出席した私(長谷川泰子)が、ぜひ録音させて欲しいと頼み込み、2回目以降の講義を録音しました。西村先生はかなり渋られたのですが、録音したものを文字起こしします、という約束でなんとか許可をいただきました。しかしその後、文字起こしには全く手がつけられないまま時間は過ぎ、西村先生は他界されてしまいました。なんとか約束を果たさないとと考えていたところ、愛知学校教育相談事例研究会で「教育臨床事例研究」を編集する長坂正文先生が文字起こしをすべて引き受けてくれ、教育臨床事例研究32にも掲載していただきました。時間をかけて面倒な作業をしていただいた長坂先生に感謝申し上げます。

 

 第1回の講義は旧約聖書に出てくる夢についての解説だったように記憶しています。録音はありませんが、“西村先生のブログ以外の文章(未公開のものなど)”の中で掲載している「聖書を読む」「ヨセフの夢」「夢分析の歴史的背景」などを読んでいただければ西村先生の考えに触れることができます。

 また、この講義録の中で「カウンセラーが本当にカウンセラーになるときは、大地から湧いて出てくる」「カウンセラーに優等生はいらん」などと語られているところがありますが、この点に関しては、やはり“西村先生のブログ以外の文章(未公開のものなど)”で公開している、「臨床心理士の連帯の意義 法華経地涌品に学ぶ」をぜひあわせてお読みください。先生の考えを更に詳しく知ることができます。

 

 なお、この講義以外の回の録音テープもありますが、非常に聞き取りにくいもので、記録としてまとめるのは困難だと思われます。

 

 

 

 

藤井日達と夢

西村洲衞男(愛知教育大学名誉教授・元椙山女学園大学教授)

 

 

I 『古代人と夢』~『明恵   夢を生きる』

 

 以前、古代の神殿医学というお話をしたと思いますが、それから西郷信綱さんの『古代人と夢』。日本の古代の夢信仰という、わらしべ長者の話しのところにですね、そういうことがね、それから親鸞の参籠の話をしました。泊まって夢を見るんですね。親鸞は、僧籍にありながら結婚したいと思ったんですね。ですから戒律を破って、結婚したいが、お坊さんだからどうしたらいいかと思い、六角堂に籠もりまして、お告げの夢を見るんですね。

 そういう夢の見方というのはですね、私たちの夢の分析とは違う、目的がある、解答がほしいという、そこに正解をもってくるわけなんですね。お願いをする。そういうことをして、夢をもらうわけですね。そういうところが私たちと違います。 百日籠もって、95 日目に夢に救世観音が現れて、この夢によって浄土真宗が開かれていく。

 それから、夢というのは「いめ」というところから来ているのですが、こういう漢字を書くんですね。「寝目」。で、睡眠中に、目があって見てるということで、心の、魂のレベルのものなんですね。夢は見るものということなんですね。見るということなんですが、見させられてしまうというか、見えてしまうという、そういうところに特徴があるんですね。で、そこに行者に夢を見てもらうと書いてあるんですが、『古代人と夢』に出てくるのは、行者に夢を見てもらう。その、お寺にいる人、熱心に修行をしているお坊さんがいて、私に代わって夢を見てくださいとお願いして、行者が夢を見て、その夢をもらって。代わって夢を見てもらう、夢見の代行ですね。面白いでしょう。自分の夢を見てもらうんですね。これは占いですね。 占いに近いんですけれども。

 それから、夢を買う話。人が見た夢を買う。夢買いの話として出てくるんですけれども。吉兆のある夢を見たと、だけど、「私はこんな夢を見た」と言いますね。「だけれども、私は夢がさっぱり分からない」と。夢というのはね、本人は分からないけど、人が聞くと分かる。よい夢だと、「それは私にください」と夢をもらう。

 ある男が寝ている。その鼻のところにトンボが出入りしている。そういう様子を見た人がいるんですね。その男が「自分はこんな夢を見た」と、「どこどこに鹿がいて、それを捉える。だけれども、捕ったんだけれども、それを置いてきた。その置き場所を忘れた。どこどこで、そういうところに置いたけれども。」そういう夢を聞いてですね。その人は「その夢を買った」というわけですね。それで自分で行って、鹿を見つけて。そういうことで、お話が展開していくんですね。

 夢を買う。その夢を判断して、なにか自分も。たとえばもしかしたらこんなことが起こるかもしれませんね。今からですね、どこどこの株が上がるという、そういう夢を買う。それで、その株を買って、儲かる。そういうことがあり得るかもしれませんね。

 それから、夢の見方はそれぞれあるんですね。夢を見て、夢を解くときに、夢解に解いてもらうということがあるんですが。それは、今の夢分析というのはですね、私たちが夢を見て、分析家のところに夢を持っていって、それで夢を解いてもらうんですね。そのときに自分の夢として解いてもらうんですね。                 

 ところがですね,西郷さんが紹介しているのは、見た夢をですね、他人の夢として持っていくんですね。「誰かさんがこんな夢を見たんですけど、これはどんな意味ですか。」それは、さっきのですね、行者に聞いてもらって、その夢がまたすごいものですから、行者に、人の夢として解いてもらう。そうすると夢としての意味がある。他人の夢として解いてもらうことがある。

 だからあの、西郷信綱さんの、日本のいろんな古い時代の文献を詳細に調べた研究というのは、非常に参考になるんではないかと思います。みなさん、ぜひとも読んでください。

 で、夢の解釈ですね、夢解、夢合わせ。河合先生が今度、この夢合わせというのを紹介しているんですね。夢合わせというのを解説してもらう。ここで、重要なポイントのーつは、夢の解き方ですね。それはですね、夢そのものからみられるということもあるんですけど,夢をどうするかが将来を決定する。だから夢をよい方向に解釈すると、よくなっていく。悪い方向に解釈すると悪くなっていく、その可能性があるんですね。だから、夢合わせというのは、夢の解き方というのは非常に重要なんです。                 

 私たちが、夢分析をやるときに、夢の解釈というんですかね、多様な解釈があるわけでしょう。多様な解釈をつかまされるときに、どの解釈を採るか、誰の解釈を採るか。そういうところで、これはスーパービジョンの問題としてすごく重要なポイントだと思うんですね。

 つまり、この夢の、夢そのものですね。 これはこれで解決としてあるんですね。それから夢からどういう意味を引き出してくるか。夢の意味ですね。この意味を明確にしますと、そこから、その人の生き方を方向づける。だから、分析の成果を左右すると思いますね。

 これまた、具体的な例で考えることにしたいと思います。

 で、こういう夢が信じられた時代というのは、鎌倉時代の初期くらいまでなんですね。その、親鸞上人が参籠の夢を見たり、それから同時代を生きた明恵上人が夢日記をつけて、そのなかで仏教の体験を深めていった。その明恵上人の夢日記での、体験の進化ですね。これについては河合先生がすでに、一冊すごい本を書いている。ですから、みなさん読んでください。『明恵  夢を生きる』という本がありますから。河合先生の夢もいくつか出てますから、見られるといいです。河合先生は、だいたいですね、自分の夢を書いていろんな解説をしている。

 で、夢に関する本を書いている人というのは、現代の日本ではあまりないんですが、夢の日記をつけている人はありまして、一人は「正木ひろし」という、弁護士さんですね。みなさんはご存知ないと思うんですが、私の世代の人間は、正木ひろしというと、あっ、なんか聞いたことがあるなと思い出すと思うんですね。非常に有名な弁護士さんです。「八海事件」という非常に複雑な事件を担当した弁護士さんです。その方が夢日記を書きまして、それを本にして出したんですね。それからもう一人は、横尾忠則さんですね。この方が夢日記をつけていまして、この人は、空飛ぶ円盤について書くんですね。それは絵でも描いてまして。

 私読んだんですけれど、あんまりよく分からん。やっぱり、あの弁護士さんとか芸術家の見た夢というのは、生活の背景が分からないと分からんものだなと思ったりします。

 

 

Ⅱ『わが非暴力 藤井日達─自伝』

 

*以下、引用箇所は斜体の「」で示した。

 

 もうーつはですね、あのー、『わが非暴力』という、春秋社から出ています。『藤井日達─自伝』。これは、藤井日達さんがしゃべって、日文研の山折哲推さんが聞いて、そして本にしたんですね。だから山折さんが聞いたふうに、録音されたと思いますが、かなり正確に載っていて、話し言葉で書かれてあります。

 この人は、熊本の阿蘇の出身で、思春期からお坊さんになろうとしていて、いろんな修行をされて、それで、私は知らなかったんですが、私(熊本)の近くにいらっしゃったんですね。まもなくどこかに行かれまして。

 それから、防衛庁が砂川(現立川市)に軍事基地を造ろうとしたんですね。 米軍の基地について反対闘争をやった(1955年から1960年代)。

 それからもうーつは、成田闘争(1966年~)ですね。三里塚闘争。この成田闘争のなかにですね、この人が入ってきた。それはなぜかというとですね、成田空港はあんなに大きく造る必要はない、あれはB52が着陸するために滑走路を造っている。そんなのけしからんと。B52が着陸できるということは,戦争に荷担することになる。そんなことは絶対にいかん。世界平和のためには手を出してはいかん。31回乗り込んで行きまして、絶対反対とやったんですね。そういう平和のために働いた人です。

そして方々に仏舎利塔というのを造りまして、それで、世界平和を願ったんですね。最初に仏舎利塔を造りましたのは、私の故郷の近くの、熊本の花岡山です。熊本駅を降りますとね、北側に花岡山が見えます。そこを出発点にしまして、日本のいたるところに仏舎利塔を造りました。インドまで出かけていったんですね、ほんとに、何にもお金がないところで、托鉢をしてお金を集めてきた。

 で、戦後の食糧危機の時代にですね、寺に何かできないかと、やっておりました。それで実家がですね、農地解放で全部土地を取られて、それで不自由して食べていたんですね。アワなんか食べて、生活が破綻して、夜逃げ同然なんですけれども。そこで、若奥さんがお寺に入られて、そこで初めてお寺の内情が分かったんですけど。水みたいなお粥で、腹が減ってどうにもしょうがない。相当な、熱心に修行したお坊さんです。親鸞がどういう人か分かりませんが、親鸞に近いような人ではないかと、私は思っています。

 この人がどんな修行をしたか紹介しますね。それは、法華経、ロータス、蓮の花の教えという意味ですね。このお経は、今、岩波文庫で3冊、上中下で漢文と漢文の読み下しと、それからサンスクリットからの訳、と左右のページに書いてあって、これ、いっぺん読んでください。ほんとうに美しい文章で書いてあるんですね。華やかな、きらびやかな世界、仏の世界が書いてあります。この法華経というお経は、いろんなお経をですね、集大成したようなお経なんですね。いろいろと気がつくんです。そのなかの1章にですね、そこに自分の身を焼いて供養するという修行が出てきます。それはどういう修行かというと、

 

 「線香一束を炊いて、それを腕に横に置いて固定させる。肌がじりじりと焼けただれてきて、そのあとから水泡ができる。この水泡はすぐに破れて、そこから臭い液が流れてきて、肌も線香もそれで湿って、線香一東くらいなら、普通に炊けば30分くらいで燃えてしまいますが、水液が流れてきて湿ってくるので、なかなか燃えない。水泡ができて、水液が出て黒焦げになる。また、それを繰り返すという具合に、そんな状態が延々と続く。すべて燃え尽きてしまうと、そのあとが大変です。焼けただれて肉が露出して、その痛さといったら相当なものです。それだけに手当が必要なのですが、お医者にかかることもせず、薬も使えない。ただ傷口を癒やすのに、白いところと青いところと半分に分けました。こうして置いておくと、しばらくして痛みを感じなくなります。すっかり治りきるまで100日くらいかかったと思いますが、こうして焼けただれた跡はケロイドになります。 私は,このケロイドが全身に六箇所あります。」

 

 びっくりですね。自分の身を焼いてですね、その痛みに耐えて祈り続けるという修行をするわけですね。ちょっとマゾヒストの感じがありますけれど。まあ、実績になっていくんでしょうね。

 

 「いずれの場合も雑念を斥けて、自分の運命を考えなければならないということでした。ちょうど明治天皇の崩御されたところで、天皇を葬る場所のそばに、畑をもっている方がありました。」

 

 ということで、その、農家で畑を持っている人が、そこで、その畑のそばに明治天皇の御陵があって、明治天皇の供養をしなければと、その畑の持ち主に言われたんですね。だから、そこでお寺を巡って修行しようかと思って、それをすべきかどうか考えたんですね。

 そのときにどう判断していいか分からないから、行をしてですね、お告げを待ったんですね(28歳のとき)。

  そしてですね。そういう自分の身を焼いて一心に祈って、そうしたらある夜夢をみた。それが「お寺を造って人々を導くことができるでしょうか」という問いを投げかけて、お祈りをして、ある夜に夢を見た。                 

 

 「松の木の下に私が立っている。どこからか声が聞こえてきました。『33歳。』」

 

 それで夢が覚めた。ただ、「33歳」という声が松の下に立っていたらパッと聞こえてきた。夢の中でですね。それだけの夢を見るわけですね。それだけの修行して。僕らが夢を待つのと随分違うんですね。

 

 「修行教化は、33歳になるまではやってはいけない。松の木が、『待つ』になりました。」

 

 「待て」と。夢というのはこういうふうなんですね。もう、解説はほとんどいらんでしょ。

 

 「『33歳まで待て』と私は受け取ったんです。こうして、決意が固まりました。」

 

 そういうことで、この人はこの夢で自分の生き方が決まる。そのあと、いろんな誘いがあるんですけれど。それで、あるとき、琵琶湖の西岸に堅田(かたた)という所があるんですが、旅をしてですね、宿をとった。そうしたら、そこの人がここへ行ってください、ということになって、いろいろ準備していたんですね。それで、そこにしばらく逗留して、そこでこの人は仙成さんという人を知るんですね。

 

 「この堅田に、何十年か前に、あなたの言うように南無妙法蓮華経と唱えてまわるお坊さんが来たことがある。元来、堅田というところは、ずっと以前から念仏の信徒と、禅宗信者の多いところで、法華宗なんかはいなかった。そのお坊さんが堅田に留まって日蓮宗を興すというようなことにはならなかった。ところが最近になって、天の影響を受けたと思われる方が堅田を訪れた。その人はお坊さんではないそうですけれど、仙成さんと言って、願をかけて、多くの信者がいた。琵琶湖の北岸は、昔から犯罪のないところで、住民も善良だった。坊さんを泊める風習が今も残っている。」

 

 この人はですね、あの、ここにいろいろ世話になるんですが、だんだん33歳が近づいてくるわけですね。それで、いよいよ修行教化の道へ歩みだそうとして、迷ってですね。東へ行くか西へ行くか、雲水みたいなもんなんですね。もう、どこへ行ってもやれる。生活ができるできないなんて考えないわけですね。行って、そこで出会った人と何かやる。そんな生き方ですね。それで、この人は自分がどうしていくかということでですね。滝に打たれることになる。

 

 「琵琶湖の西側には、比叡・北山がそびえていますが、当時はなかなか人が近寄らない、文字どおり人跡未踏の深山でした。大正4年9月10日に、私は薮のなかをかき分けるようにして、比良の山に登り、八淵というところに辿りつきました。そこには有名な八淵の滝があって、頂上の方から落ちてくる水が岩をうがって窪ができる。そこが淵になって、そしてそこに溜まった水が溢れて北へ流れ、それが滝になって、ところがその下にまた窪ができて淵になって、下の方に流れて滝になって。」

 

 もう、どんどんたくさんの滝ができているんですね。そこで、修行しようとした。9月10日ですからお彼岸に近い頃ですね。

 

 「滝に打たれて、1週間断食をすることにした。」

 

 最初は身を焼いていたんですけど、この頃から、滝に打たれて断食をすることにしたんですね。

 

 「今の人のように何枚も着物を重ねないで、肌着1枚着て入って、冷たい水に打たれました。」

 

 あの、皆さんはこういうところ見たことがありますか。私はね、2回ほどしか見たことがないんですけど、そういう場所はありましたよ。

 一番近いところは、猿投神社(豊田市)のところです。猿投神社の本殿があるでしょ。ちょっと左奥に入っていくとね、滝に打たれるような場所があって、ちゃんと服を着ているんです。今でもやっている人がある。密かにやっていると思いますね。だから、おそらく早朝とか、真夜中とか、そんなときにやるんではないですか。

この間、京都に行ったときに、知恩院の奥ですね。赤煉瓦の水道があるでしょ。あそこから山を登って行きますね。登りついたら、奥のところに滝があります。そこで打たれる。そういう滝に打たれるという行が、今の方々に隠れてあるんですね。この人は肌着1枚でやっとるんですね。

 

 「夜になると、岩陰に身を潜めて横になります。」

 

 あの、肌着1枚ですからものすごく寒いですよね。終わってから着物を着るんじゃないです。濡れたままの着物で岩陰に横になるんですね。

 

 「ところが、太陽の熱で着物に徽が生えてきました。おもしろいものですね。これで七日間やったんです。断食中は水も飲みませんでした。まったく飲まず食わずで七日間の修行。」

 

 これ、自分がね、今からね、歩き出そうとする。どうしたらいいんだ、どっちに行ったらいいんだ。それを、こういう形で、自分に教えてもらうための夢を待つ。夢というのは、何かインスピレーションを待つわけですね。

 

 「最後の頃だったと思いますが、夜に夢を見ました。ふっと見上げると、とてもきれいな大きい大きい山門が見えます。そこに大きな額がかかっておって、金文字で『文武の両道』と書いてある。」

 

 山門がある、ここから出ていくか入っていくかは分かりません。

 

 「覚めてから、私はこの夢を信じて、その意味を反芻して考えました。私の敵は外部にあるのではないか、それは内部にあるのか、内部の敵は自分の精一杯の力で抑えなければならない。」

 

 内部の我が身にもあるということですね。自分のですね、こころの迷いとか、弱みとか、そういったものが一番怖い。だから自分の意志を固めていく、そういうとこになっていくんですね。こういう1週間滝に打たれてね、自分の方向を決めていく、すごいことだと私は思いますね。

 こういう夢を見てからまた、この度はいよいよ33歳になって。それで、今度は、奈良の春日山のところにある、桃尾の滝というところにいっぺん行かんと思うんですね。このときはですね、修行したんですが、滝の高さが五丈六尺(約17メートル)、かなりの高さですね。最後の方針を決めるためにですね、11月18日にですね。だいぶ寒くなってますね。

 

 「身の回りのものを持たずに、まったくの着の身着のままで、断食したまま京都からずっと歩いて、奈良の桃尾の滝に参りました。」

 

 京都から歩くんですよ。京都から歩いて奈良行って、ここでもやはり八淵の滝でやったのと同じく、1週間お堂に籠もり、滝に打たれて修行をした。その間は、もちろん水も飲まずに断食をする。滝に打たれているわけですから、水はいっぱいあるんですよ。でも水を飲まなかった。

 

 「いよいよ満願の25日を迎えまして、明け方にその高さ五丈六尺もある桃尾の滝で、自省自戒をいたしました。」

 

 自省自戒。これは、一人で誓うわけですね。普通は、お寺でみんなで修行して、そしてみんなの前で誓うということをやるんですが、この人は一人で修行していますので、自分で、自分はこういう戒律を守ります、自分はこういう生き方で生きますということを誓うわけですね。

 

 「そのときですね、すり護摩したら、夢でもなく幻でもないものですが、奇妙な驚骸をこの目で見たのです。急に視野が広がって、そこに道場のようなものが展開した。法華経の如来神力品が目の前に現れてきた。そうしますと、そこに小さな幼子を背負った者が太鼓を叩いて歩いていた。思わず私が、あなたはだれですかと聞きますと、『常不軽菩薩』。それで今度は、その背中の子どもはだれですかと聞きますと、『お釈迦様』と答えます。それで幼子を背負った人は消えました。」

 

 一瞬のうちに出会って、会話をして、常不軽菩薩、お釈迦様に出会ったわけですね。すごいですね。

 

 「それは全く不思議な経験でした。それは私の全身を激しい力で打ちのめしました。以後、私はただお開講をして修行することに私の一生をかけようと決意したのです。」

 

 だから、この人は、この仏様と邂逅して、自分の信じている仏教をですね、世の中に広めていこうと、思うんですね。

 それから、仏様にね、私たちに教えてくださいと言って、そうしたら私たちが世の中に広めますと言うんですね。そうすると、仏様が「そんな優等生はいらん」と言うんですよ。私の教えを広める人は、大地から土の中から湧いてくる。そういうことを言いますとね、大地がバアッと割れましてね、そこから菩薩がバアーと出てくる。そして世に向かって説教する。

 それで、私はすごく感激したんですね。カウンセラーに優等生はいらん。つまり、カウンセラーが本当にカウンセラーになるときは、大地から湧いてくる。大地は、つまり下界ですね。暗いところから生まれてくる。世の中に苦労した人、そういう人たち。優等生はいらない。あの、こういうことが書いてあります。

 ここで、藤井さんが注目していることは、お釈迦様がこの幼子になっている。それを背負っているのは、父親みたいな人ですね。父親みたいな人が、子どものお釈迦様を背負っている。このお釈迦様は、もう何億年も前に自分は悟っている。幼子が、大人の父親みたいな人を教化する。ここにすごく矛盾があるでしょう。

 これと同じ話はキリスト教にもあるんですよ。それはあの、クリストフォルスがキリストを背負って川を渡ったお話。ある夜、渡守(わたしもり)が肩に担いだ小さな子どもがですね、川を渡るにつれて重くなって必死で対岸にたどり着くんですね。その重さは世界の重さだったというわけですね。

 こういう、聖者が子どもとして出てくるのが面白いですね。しかも、お釈迦様は、すぐ全ての人たちが教化されていくんですね。

 この夢の意味は、理解するのにもうちょっと考えないといかんと思うんですが。それは自分で読んで、考えてください。

 それはですね、今言ったようにですね、大地から現れてくる菩薩、菩薩というのは仏じゃないんですよ。菩薩というのは、仏になるために修行している人を菩薩という。ですから、まだ未熟者です。成熟した人たちが、仏の姿になっていくんですね。仏はただ見ているだけで何もしません。菩薩、つまり至らない人間、また未熟な人間が、いろんな救済をしていくという考えですね。みなさんは、自分が菩薩とは思っていないかもしれんけど、仏教のほうから見たら、自分がなにかそういう心を救うという、魂を救うという方向に動き出した途端に、みなさん菩薩になるんですね。そういう考え方があります。

 カウンセラーというのは、こういう優秀さがある人ではなく、自分で苦労した人たちがなっていく。しかもそれは、代々、カウンセラーがカウンセラーを育てていく、そのスーパービジョンのシステムが必要なんですね。

 この、たくさんの夢の見方がすごいので紹介したいんですが。ほんとに自分に必要なですね、自分のアイデンティティを形作るためには、これだけの準備をしてね、夢を見る必要があるんだなということをちょっと分かってきました。

 それで,もうひとつ紹介しておきたいのですが。この人は、いろいろとやるんですけど、朝鮮に渡るんですね。大陸の方へ行くために、いろいろと苦労したんですね。そのとき、この人は福井にいたんですね。福井にいたときに、お母さんが危篤という電報が入るんですね。当時ですね、お母さんは、父や兄夫婦とともに、北朝鮮の新義(しんぎ)というところに、新義というのは、一番北のところですね。一番満州に近いところです。鴨緑江(おうよくこう)を渡りますと満州ですね。そこから危篤の電報が入ったので、朝鮮に行ったんですね。

 

 「朝鮮に行きますと、ようやくたどり着いてお見舞いいたしますと、もう何も喉を通らぬ、医者も匙を投げて、薬もやりません。食べ物はもちろん、水も飲んでいないのですから、その衰弱ぶりはひどく、まったく、差し迫ったという状況でした。私は、それまで母のおそばにいて、1日たりともご好意をつくしたことはありませんでした。」

 

 この人は中学くらいから、パッと家を出てね、死にそうに、奔走したもんですから、もう、お母さんのことなんか全然かまわなかったんでしょうね。

 

 「それで、今こそは最後の機会だと思って、枕元にすがりつきました。それからというものは、昼夜を分かたず、一睡もせずに、法華経を拝読して、お題目を唱え、必死になってお太鼓を打ったのであります。食事だけは取りましたが、文字通り一心不乱になって、ご祈念に入りました。」

 

 お母さんが瀕死の状態でね、もうこの人は不安でね。それで頑張った。ものすごいことですよ。

 

 「すると、不思議なことに、母の容態が少しずつ回復の兆しが見え始めました。」

 

 何にも食べん人がね、ちょっと元気になった。

 

 「あとから、母が申しますのに、あのとき、私のご祈念の声を聞いているうちに、ふっと夢に誘われたと言います。声が次第に遠くなるにつれて、故郷の阿蘇にある滝室(たきむろ)坂という坂を自分一人で上っていく。道ばたには、とても大きく、でこぼこした溶岩が吹き出して、ごろごろ落ちている。われわれが子どものころ、それを「いぼ石」と言っておりました。」

 

 みなさんは、阿蘇に上ったことがないですね。阿蘇は溶岩地帯の山ですから、ごつごつした岩が、ごろごろ方々に出ているんですね。あの、三宅島の火山ね、あれ、溶岩でごろごろしてるでしょ。あれに、まあ、土がかぶさった感じですね。

 

 「そのいぼ石を避けるようにして、道が造られているのですが、それは波野というところへ通じている。母はその坂を少しずつ上っていくのですが、その中途の、いぼ石の上にお地蔵さんが立っていて、登っていく母の姿をじいっと見つめていた。 そして、そのお地蔵さんの視線がじゃまになって上りにくい。しかし、ここはなんとかして通過しなければならなんと思って、力を振り絞って上りにかかると、今度はそのお地蔵様が話しかけてきた。『どこへ行くの』。その声は、これ以上坂を上ってはいけないと言っているように思えて、無理をして登ると、強く叱られそうな気がして怖じ気づいてきたと言います。それで仕方なく、家に帰りますと答えたら許してくれるだろうと思い直して、『それでは家に帰ります』と言った。お地蔵様はうなずいたので、坂を下って家に帰ってきた。そういうお話を母が聞かしてくれた。」

 

  これ、お母さんの夢ですね。お地蔵さんがなんか、帰りなさいと。で、この人は帰ってきて、生き返ったんですね。              

 

 「私も喜んで、それは有り難いこと、お母様助かりますよ。お地蔵様が追い返してくださったと言っておりますと、母は『お酒を少しいただきたい』と申します。さっそくお酒を紙に湿らせ、母の口に当てますと、それがすうっと喉を通った。そして今度は『水をいただきたい』と言われ、次第に元気になっていった。」

 

 まあ、こういうふうにね、太鼓を叩いて、一心に唱えると、お母さんが夢を見てね、死の領域から帰ってくるんですね。これ、どうしたら信じてもらえますかね。私は、クライエントがですね、クライエントのお母さんが、亡くなって、後追い自殺をしようとしたんですね。その遂行直前まで行ったと思うんですけど、私の夢を見るんですね。それは、「自分が坂を上って、上の方から先生が手を差し伸べて、それで先生の手をつかまえようと思って、一生懸命に上ってるんだけども、すべって、とうとう諦めて帰ってきました。」そういう夢をね。「いやー、よかったなー」と言ってね。もし、先生の手につかまって上にひっぱり上げられたら、どうなっていたでしょう。こういう死のプロセスというのは、こういう形で出てくるかもしれませんね。

 この人は、ほんとうにいろんな修行をしていまして。この人の修行を見ると、ぞっとしますね。この外殿の冬の修行なんてすごいですよ。零下何十度のところで、座って、まあ、下駄は履いておるんですけど、みんな凍傷にかかって脚を失うところだったんですけど、この人は凍傷にかからなかった。ちょっと読みましょうか。

 

 「薄着をして、素足でやっているのは私だけです。私は、いつもの寒行の一通りの行程が終わったあと、ご信者の家でしばらく休ませてもらうことにしていました。そこでお茶をいただいて、暖まってから帰ることにしていました。このとき、うっかり、冷え切った身体を温めでもすれば大変。すぐ凍傷にかかってしまう。両方の足などは、雪が付着して蝋のようになっている。だから、感覚もすっかり麻痺して、下駄を履いているのか、下駄が抜けているのかまったく分からない。立っている足の硬さが違うので、やっと片方の下駄が抜けたなということが分かる。そんな状況でした。家に入るときは,まず感覚を、足を雪でまぶすようにこする。しばらくやっていますと、ちくっと足に痛みを感じるようになります。雪と言っても、凍った雪ですから、それで足が刺激されるわけです。それから、今度は水に足をつけます。次第に痛みが強くなってきて、だんだん水の冷たさを感じるようになります。そのあと、足をぬぐって、座敷に上がって座禅をやりました。この場合は、火を避けて、自分の体温だけで身体を暖めていく。そのために、座ったままお題目を上げるのですが、そのうち次第に手足が自分の手足となり、ついに凍傷にかかることはありませんでした。」

 

 この人は、自然の摂理を知っていたと思うんですね。系統的脱感作ですか、心理学の言葉で言えば。それに近いでしょ。だんだん、ゆっくりと戻していく。ゆっくりと。だから、非常に硬直した人がいるでしょ。この人たちに対して温かいサービスをしたらいかんのですよ。だから、この人が最初は、雪と氷で足をさすったり。だから、硬直した心をあんまり暖めてはいかんのですよ。

 みなさんは、カウンセリングのときにね、温かく受け入れてやろうと思っている。そうやるとね、クライエントが逃げていく。あるいは、凍傷にかかるか、どちらかですね。身体的なケアの方法は、こころのケアのやり方と非常に似ているんですね。

 

 「まあ、そういう気持ちで、ご修行をしておりますと、それが大変な評判になって、常夜となって、町の人々が、お坊さんが、半掛かりで通っていくという、ついに新聞社が写真を撮っていくという。それに修行を加えました日には、さらに。」

 

 この人の、まあ、そういう生き方が、夢に従った生き方が、こんな生き方なんですね。みなさんはどうしますか。 まあ、夢分析の極地ですね。こういうことは、セラピストはいらないですね。セラピストは仏さんです。

 そして、智慧(ちえ)ということがありますね。私の出会ったクライエントのなかにも、智慧を得た人が一人います。突然ね、「私はこれで行きます」と。私は本当にクライエントに教えてもらった。

 

 なにか質問ないですか、…これ、夢ではないですけどね、内観法というのがありますね。これは、吉本伊信という人がね、開いた。自分で悟ろうと思っても、なかなか悟りを開けない。それで悟りなんかどうでもいいという、そんな境地に入っていくと開ける。この藤井さんという人が一週間滝に打たれて、それで帰ってきた境地というのは、自分というのはまったくなくなるという、そういう境地ですね。ただひたすら祈る、そんな状態に入っていって、この人は、自分は救われたという体験をするんですね。その体験の内容については、あんまり書いてありません。「ありがたや、ありがたや」としか、ただ必死になって祈ると、前のめりになってぶっ倒れたんですね。それからが書いてないんですね。「私は前のめりにぶっ倒れた…」そういう状態、心理学的にはどういう状態かな。それほどの高い、仏の体験がないといけない。この藤井さんは、この世に生きていく道を開いたんですね。

 こういう修行した人たちはですね、ほんとにいろんな人の世話になっていますので。当時は治療代というのも、ほとんど取っていなかったんですね。そんなことで、何かの救いを求めるんですね。ということで、基本的には「祈る」ということですね。夢を見るために、救いを求めるために、祈るわけですね。

 私たちの夢分析というのは、こんなふうにはできないですね。ですから、日常生活にもっと繋がりながら、夢を活かしていくにはどうしたらいいか。そこに現在の心理療法における夢分析というのがあるかもしれませんね。

 で、この藤井日達さんのような生活は、それは、全部仕事を投げ出さなけりゃ、家族も全部投げ出さなけりゃできないですね。ですから、家族も持ち、仕事を持ちながら、夢分析をして自分の生活を導いていくには、どうしたらいいか、どういう構造があったらいいかと考えないといかなきゃならんのですね。

 

 

 

 

文献 

藤井日達(1972):わが非暴力 藤井日達一自伝.春秋社.

河合隼雄(1987):明恵 夢を生きる.京都松柏社. (1995 講談社+α文庫)

三木ひろし(1983):正木ひろし著作集6夢日記、若き日の断想・スケッチ集.三省堂.

西郷信綱(1972):古代人と夢.平凡社選書.(1993 平凡社ライブラリー)

 

 

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