「暮らし」をする

長谷川泰子

 

 THE BIG ISSUEの452号にミュージシャンの坂本美雨さんのインタビューが掲載されていた(4月1日発行の雑誌なので、父・坂本龍一さんの死が報じられる以前のインタビューである)。

 歌はもともと好きだったが、16歳の時に父親のプロジェクトに匿名で参加したのがきっかけでミュージシャンとしてデビューすることになった。ところが2枚目のアルバムを製作する時に、プロデューサーから「歌はうまく歌えているかもしれないが、“自分の歌”を確立できていない」と言われ、録音したものの発表されないものがあったという。彼女はそれまで両親とともにアメリカで生活しており、デビューの後に東京で1人暮らしを始めたが、「今思うと、私は日本のことを何も知らず、『暮らし』をしていなかった」という。「歌は人生そのものが出てしまうので、まだまだ歌に説得力がなかったんですよね」と語っていたのが興味深かった。

 昔の村上春樹のエッセイで買い物についての話があり、どの野菜がいくらぐらいで売られているなど、そういうことを知っておくことは案外大事、ということが書かれていたのを記憶している。毎日をどう過ごしているか、それが直接語られることはなくても、その人のどこかににじみ出てくるのかもしれない。おそらく言葉ではとらえられないような領域で表現活動にも影響を与え、それを見聞きする人に漠然とした、しかし確実な何かを伝えるのではないか。

 自分の「暮らし」をどう暮らすかが重要なのは臨床心理士も同じだと思う。その人のあり方、生き方、暮らし方が、言葉ではとらえられないような領域、無意識的なところににじみ出てきて、相談室に訪れたクライエントに漠然と、しかし確実に伝わっていくようにも思う。もちろん、知識や経験は大切だ。しかし毎日を着実に生きることも臨床に関わる。だからこそ私たち臨床心理士は毎日をどう暮らすかきちんと考える必要があるし、教育分析も重要になってくるのだろう。

 

 

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