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金色のちひさき鳥のかたちして

長谷川泰子

 

 

 相談室から自宅に帰る途中、街路樹にイチョウが植えられているところがある。紅葉のシーズンはこのイチョウを見て帰るのがちょっとした楽しみだ。交通量の多い道路で、その分気温も高いのだろう、例年ここのイチョウが紅葉するのは、他のところよりもだいぶ遅い。

 与謝野晶子の短歌に

 

 金色(こんじき)の ちひさき鳥のかたちして 銀杏ちるなり 夕日の岡に

 

というのがあって、私はどこかでこの歌を目にした時からとても気に入り、あっという間に覚えてしまった。学生時代、一人暮らししていたアパートと大学の間の線路わきにあまり大きくはないイチョウの木が一本だけあり、秋になると葉が舞い落ちるのをよく目にした。ハラハラと舞い落ちるイチョウの葉が傾いた陽に照らされるのを見て、与謝野晶子の短歌の通り確かに“ちひさき鳥”だと感じてからは、紅葉の時期になるとどのイチョウを見てもこの歌を思い出すようになった。

 改めて、イチョウを目にしてこの短歌を思い出している自分のことをよく考えてみると、どうも目の前のイチョウを見ているのではないということに気が付く。与謝野晶子の短歌がひとつのカギとなって、目の前にあるイチョウの向こうにある、30年前の線路わきのイチョウを見ていると言う方が正確だ。いや、もっと正確に言うならば30年前の大学生活やその時の人間関係、そしてその時の自分自身を見ているのだ。今目の前にあるイチョウは目に入っているようで、まるで見ていないのである。

 日常生活であまり気が付くことはないが、こういうこといつでもどこでもしばしば起こりえることだ。モノ相手ならまだいいが、厄介なのは人間相手にこういうことが起こることで、恋愛対象は関係が近いからこそ頻繁に起こりやすく、その分、よりややこしいことになる可能性がある。例えば目の前の恋人を通して、実は別の昔か関わりのあった忘れられない人を見ている、というようなことは珍しいことではない。その人の人生において重要度が高い、あるいは関りが深い人ほど影響力が強く強固なイメージを振りまくから、目の前の人の実際の姿をすっかり覆い隠してしまうようなことだってある。はじめはこころの中にある別の人のイメージが目の前のよく知らない人との関係を深めるのに役立つこともあるが(よく知る人に似ているような気がして安心感がある)、関係が深まるほど目の前の相手の真の姿が見えてくる。はじめの親近感は単なる思い込みや錯覚に過ぎない、こんな人だとは思っていなかったとびっくりするようなことも出てきてしまう。長く一緒にいても全く気が付かなかったと、あぜんとするようなことだってあるだろう。

 しかし、ここからが本当の始まりだとも言える。人でもモノでも、それ自身をなんのフィルターも通さず、客観的に見ることはとても難しい。しかし目の前の人・モノをよりクリアに見ることで、相手とのより深く強い関係を築くことができるようになるのではないか。それだけではない、自分のこともよく見えてくる。そしてそこから自分自身とのより深い関係が生まれてくるのだと思う。

 

 

 

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