記憶の進化

長谷川泰子

 

 小さいときに好きだったCMがある。風景や音楽が印象的で、以前からもう一度あのCMを見てみたいと思っていた。化粧品のCMだったと記憶しており、その企業の資料館らしきものがあると聞いて、他県でちょっと遠いけど、機会があれば行ってみたいとも思っていた。

 先日、またそのCMのことを思い出し、そうだ今ならばインターネットで探せるかもしれないと気がついた。

 早速、いくつかのキーワードを使って検索して、CMの映像はすぐに見つかった。しかし私の思っていたのとは全く違うCMだった。

 まずびっくりしたのが、化粧品ではなくお酒のCMだったこと。女性向けの商品のCMだと思っていたのに、まるで違った。使われていた音楽は確かにこんな感じだったと思ったのだが、映像は記憶とまるで違う。暗い海、押し寄せる波の映像が印象的だと記憶していたが、今回見つけたCMはどう見ても海があるような場所ではない。高原のような緑の多いところで撮影されたもので鹿もいた。どうして海だと思っていたのか、同じCMの別のバージョンがあるのか、それとも全く違う映像と混同していたのか、よく分からない。

 記憶というのは実にあいまいなものだと実感したが、しかしだからといって記憶が重要でないかと言うと、決してそんなことはないだろう。記憶として私たちがこころの中に持ち続けているイメージが私たちをあたため生かしてくれることもあり、逆にそれによって苦しむこともある。客観的な事実とは異なるかもしれないが、心的な事実と言われるようなものこそが大きな影響を与えることが多い。心的で主観的なものだからとないがしろにできない力を持っている。

 先日、名古屋で学会があったついでにと、西村洲衞男先生をよく知る方が相談室に来てくださった。メールでやり取りをしたことがある程度で、今まで直接お会いすることがなかった方たちである。それでも西村先生の話題で盛り上がり、話し足りないぐらいであった。

 西村先生の実体はもうない。しかしこうやっていろいろと話をすることで記憶や体験を共有し、さらに豊かなイメージを持つことができるように感じた。話をした時のあたたかい気持ちや安心感、何かを共有できたというゆるい一体感など、そういった心地よい体験が本来の記憶にプラスされていくのではないか。記憶自体が大きく変わるわけではないが、そこに付随するイメージは変わることがある。そこから何か別のもの、新しいものが生まれてきたり、次の方向性が見えてきたりするようなこともあるのではないか。記憶が改変されるわけではない。しかし今までの記憶やイメージが広がりを持ち、進化していき発展していく、そんなこともあるのではないだろうか。

 

 

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