生きた土地への愛着

 「生きた土地への愛着」というタイトルで保存されていた文章です。最終更新日は2016年11月18日です。ホームページ用に書かれた文章だと思われますが、書きかけで完成されないままだったようです。公表にあたり、読みやすいように多少の修正をしました。

 

 

 

生きた土地への愛着

西村洲衞男

 

 「こんなところに日本人が」というテレビ番組があって、時間があるときはなるべく見ている。日本から何十時間も離れ、ときには危ない土地で、山越え谷を越えて行かねばならない、言葉も不自由な外国の土地に住んでいる人がある。しかもそこでもの凄く苦労して生きてきて、今ある程度落ち着いた生活を築いている人は幸せそうで、その笑顔が素晴らしい。

 心の深みから明るい光がさすような笑顔は苦労を重ねた人たちが放つ光だ。そのたぐいの光を辺鄙な外国で苦労して生きてきた人の笑顔に見ることができる。

 苦労して生きるとその土地への愛着もできるのだ。

 私もこの頃やっと愛知の土地に根付いて来たのではないかと感じるようになった。

 大学を定年退職しても愛知は見知らぬ土地だった。愛知に来て35年も住んでいて、まともに尾張弁を聞いたのは片手で数えるくらいで、尾張弁を私は知らない。土地に馴染めないのは当たり前である。

 愛知では、庭師が木をバサバサと切り、名古屋刈りと言われる。工場が多くトラックの交通量も多く、緑が少ない。街の情緒が無く、人より車の街と言った方が良いのではないかと思う。そんなふうに名古屋の街は好きになれないのだが、愛着は湧いてきたと感じている。嫌いなところもいっぱいあるけれど、愛着も感じ始めている。

 それは大学を定年で辞め、以来檀渓心理相談室で師匠亡き後、苦労して自分のカウンセリングを苦労して作り上げてきたことが大いに関係していると思う。ただひたすら檀渓心理相談室の自分の椅子に座り、話や夢を聞き、箱庭を作らせて見てきたこと、その苦労は外目には大したこととは見えないが、自分にとっては苦労でありしかも喜びの経験の積み重ねであった。この自分で生きた苦労の分、私はこの土地、愛知の人になっているではないかと思う。自分の顔に光があるかどうかはわからないけれど、定年後10年自分を生きてきたその分だけのアイデンティを持ち、愛知に根付いているのではないかと思う。根付いた分の愛着があると思う。

 知を愛するという地名も私は好きだ。尾張も三河も私にはわからない。愛知は古代からの地名らしい。家の近くにある池は折戸下池で、折戸という地名も古い地名ではないか。戸が折れるほど強い風が吹いた所ではなかろうか。札幌の人が名古屋は札幌より寒いと言う。風のせいである。夏は暑く冬は寒い。この気候は育った熊本に似ている。でも似ているから好きになったというわけではない。やはり自分が仕事やその他のことを考えながら生きてきたその経験の苦労が愛着の元になっていると思う。

 苦労は買ってでもしろという先人の言葉が当てはまる。

 

 

 

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