西村臨床心理学 序文

 「西村臨床心理学 序文」というタイトルのつけられた文章です。最終更新日は2019年6月30日です。本文中にもありますが、西村先生が「後進のために」書かれた文章です。

 「西村臨床心理学」というタイトルでいくつか文章が保存されており、これから順次掲載させていただきます。

 

 

 

 

西村臨床心理学

 

はじめに

 心理臨床の領域で学び始めて間もなく『牛島青年心理学』に出会った。この本は牛島義友がお茶の水女子大学で学生の日記を集めそこから発想を広めて青年の心理学を著したものである。その元はシャールロッテ・ビューラーが青年の日記を集め『青年の精神生活』を著したものによっている。『牛島青年心理学』もユニークなもので、私はその中の「自我体験」を読んで、自我体験の事例をいろいろな文献から集め自我意識のことをある本に書いた。それは哲学の人の目に留まったらしく、ある年のセンター試験の倫理の試験問題に一部が出され、試験監督をしていた自分が驚いたことがある。また、心理学領域でも後に自我体験を広く発達的に研究する人が出て来て、私は心理学の自我の研究の一分野を最初に切り開いたことになっている。しかし、その研究は自我体験が発達的にどの年代に出てくるかという研究に終わり、自我体験の内的な意味について深められることはなかった。ただ、中井久夫先生が「あれは離人体験だね」と言われ、離人体験の様々な様相を見ていることがわかった。牛島の青年期の自我体験への注目は私を通して離人体験の研究に可能性を開いた。

 離人体験は夏目漱石にもあって、漱石は猫の目でもって自他を客観的に見て内面の心理を深めた。離人体験というと病的に見えるが、意識的活動が現実から浮き上がって、ものごとを客観的に見ることになるから意識的な活動性が高い優れた人が経験していることが多い。お音楽や絵画など芸術の世界で必要な機能であると私は思っている。その機能がないとものごとの本質を描出することはできないと私は考える。

 私自身は自我体験の事例は集めたが知的な機能、特に言語機能が弱いために研究を深めることができなかった。しかし、知的な機能の高い人は文献を沢山読んで「誰はこういっている、彼はこういっている」として広く見渡しているものの、その人の個性的な見方は何もないことがある。学術論文というのは大体そういうものである。学術書が面白くないのはそのためである。

 私は『牛島青年心理学』に出会って自分もいつかこんなユニークな仕事をしてみたいと思った。そして今私は『西村臨床心理学』を書こうとしている。

 私は元々この世を生きる力が弱かった。なぜこんな人生を生きなければならないのかと思ってきた。そのために沢山の宗教書を読んだ。そしてある時五十代半ば、生きる力が自分にもあることに気づいた。生きる力は使えば使うほど内から湧いてくると思うようになった。その時から宗教書をほとんど読まなくなってしまった。それから20年経って再び宗教書を読んだ。般若心経や理趣経を読んで驚いた。般若心経は心理療法のテキストであり、理趣経は生き方を示した本であった。私は学術的には弱いので学術的に説明することはできないが、直観的に見出したもので心理学を書いてみようと思う。私は心理臨床という実践の世界のことを書きたいと思う。料理や菓子職人は実際家だから自分で本を書くことはしない。しかし、心理療法の実際家は今までにない方法を切り開くために実際的なことを書かねばならない。本を書くと実際家でなくなる可能性が大だから心理療法家としては不利であるが、後進のために書いておきたい。どのようになるか自分でも楽しみである。

 

 

 

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