一度生まれ・二度生まれ

長谷川泰子

 

 中学校を卒業する直前、担任の先生に何かの用事で呼ばれ、ついでのような感じで将来何になりたいのかと聞かれたことがある。50代の女性の先生だった。その時はまだ臨床心理士という資格は存在しなかったけれど、そういった仕事はしたいと思っていたので「精神科の医者とかカウンセラーになりたい」と答えた。するとその先生は「そうねぇ、あなたは会社に勤めるのは難しいかもしれないから、そういう仕事がいいかもしれないわね」と言った。

 担任の先生が何をもって「会社に勤めるのは難しい」と思ったのか今でも気になり、もうずいぶん前のことなのにしっかり覚えている。

 この仕事をしているとしばしば「大変な話ばかり聞いてストレスたまるでしょ」と言われたりするけれど、カウンセリングで人の悩みをきいてそれが負担になるようなことはあまりない(全くないとは言わないが、むしろ負担になることはまれだ)。自分の仕事が好きだし楽しい。楽しい、というと誤解されるかもしれないが、生きることを考えることに興味があるし、生きることを考えることがおもしろいと思う。実際、私の周りにいる同業者でも「こんなおもしろい仕事はない」という人が多い。

 普段の生活の中で自分自身の方向性を考えなくてはならないようなことがあると、自然と「私は臨床心理士だから」というところで考える。「臨床心理士としてはこういうことはしたくない」「臨床心理士だからこそこうありたい」と、臨床心理士なんだからというところでブレーキがかかったり、思い切って一歩踏み出したりするようなことがある。いちいち臨床心理士だからどうだこうだと考えるのは、はたから見るとうっとうしいかもしれないが、こういう考え方が自分を守っているところがあるかもしれない。

 昔、西村洲衞男先生に「宗教的経験の諸相」(W.ジェイムス著 桝田啓三郎訳 岩波文庫)を読むよう言われ、ずいぶんがんばって読んだ。当時の自分には難しい本だったが、「一度生まれ、二度生まれ」についての説はおもしろく思い、印象に残っている。一度生まれの人というのは、神を疑ったことがなく、神を素直に信じ続けて宗教的な生活を送っている人であり、二度生まれというのは、神を信じていたのにその存在を疑うことを経験し、苦しんだ後に再度神を信じるようになった人・神のもとに帰ってきた人のことである。この考え方からいくと、私自身は仕事・職業に関しては「一度生まれ」の部類に入ると言えるかもしれない。

 W.ジェイムスは一度生まれの人に関して、フランシス.W.ニューマンという人の以下の文章を引用している。「彼らは、神を、厳格な審判者とは見ない。むしろ、美しい調和ある世界に生命を与える霊、慈悲深く親切な、清純であるとともに恵み深いお方として見るのである(中略)。彼らが神に近づく時にも、内心の動揺は起こらない。そして、まだ霊的な存在となっているわけではないから、彼らは、彼らの単純な崇拝のうちに、ある安らかな満足感と、おそらくはロマンティックな興奮を感じるのである」。つまり“霊的な存在”になるためには一度生まれでは不足しているものがあるということだろう。フランシス.W.ニューマンは、一度生まれの人間は、「子どもっぽい」とも言っている。素直だが単純であり、こういう人間にとっては「宗教に入ることは、彼らにとって大変幸福なことになる」のだと言う。

 確かに、自分の仕事を疑わず、この仕事を続けることに「内心の動揺は起こらない」。揺るぎはしないが、良く言えば素直、悪く言えば盲目的になりやすいかもしれない。実際、自分は子供っぽいと感じることもある。仕事に関して一度生まれできた自分にとっては、やはり教育分析が必要だった、あってよかったと思う。生まれ直しの体験と言ってもいいのかもしれない。

 

 どういうわけか私の周りには、いったん別の職業に就くなどして社会人を経験した後に臨床心理士を目指し、自分なりに道を切り開いてこの仕事に就いた人が多い。二度生まれの人と言えるだろう。こういう人と接していると、相手がはるかに年下であっても「大人だなぁ」と思うことがある。社会のいろいろな側面を知っていて、私にはない視点があるなと感じる時があるのだ。接していて勉強になること・教えられることも多い。

 河合隼雄先生は高校の数学の先生を経験された後にこの世界に入られた。西村先生も大学では数学を専攻され、いったんは統計調査の会社で仕事をされた後にカウンセリングの仕事を始められたと聞いている。今まで進んできた道から方向転換することは、時に自分の基盤を揺るがすような大きな出来事になることもあるだろう。しかしそれはもう一度生まれるチャンスとも言えるのではないかとも思う。私たちは何度でも生まれることができるし、生まれ直せばいいのだ。

 

 

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