ラジオ体操から考えた

長谷川泰子

 

  肩が凝る性質たちだ。ちょっとでも身体を動かしたほうがいい、ストレッチでも、と思ったが、どう身体を動かしていいのかよく分からない。こういうときはインターネットで動画などを調べて肩こりに効くストレッチなどを探すと良いらしいのだが、それもめんどくさい。手軽なところでラジオ体操でもやってみようかと思った。傍から見れば一人でラジオ体操もおかしなものだろうが、人も見てない室内だし、あれなら私でもすぐにできる。

 しかしやってみて分かったが、一人でラジオ体操をするのは難しいのだ。あの音楽がないとできない。こんな動きがあった、あんな動きもあったと、一つ一つのパーツはしっかり覚えているのだが、それをつなぎ合わせて「ラジオ体操」としてひとつの動きにしようとするとできない。最初の2つ3つを過ぎたところで、あれ、このあとどうするんだっけ、となってしまう。

 ラジオ体操なんて小学校のときから数え切れないぐらいやってきた。高校生の時は、体育の先生がラジオ体操に強いこだわりがあり、一年生の一学期の体育の授業はすべてラジオ体操に捧げられた。一回の授業で取り上げるのはラジオ体操の中のひとつ部分だけ、この動きはどこの筋肉をどう動かすべきものなのか説明があった上で正しいやり方を教えられ、何度も繰り返しやらされる。学期の最後には一人ひとりが皆の前でラジオ体操をする「試験」まであった。ここまでみっちりやった経験があるのに、例の音楽なしで一人でやってみようとするとできない。

 

 ラジオ体操はあの音楽とセットになっているのだ。音楽なしで独立した体操としてやろうとするととても難しいものになる。しかし例のピアノの音楽が聞こえてこれば、あれこれ考えなくても条件反射のように身体が動く。ということは、そこに自発的な意志はなく、自分で考えて動いていないから何回やっていてもきちんと覚えられていないのだろう。しかも、あのピアノ曲も何度も数え切れないぐらい聞いているのに、一人で頭の中で再現しようとしてもできない。前奏の部分は覚えているけれど、実際に身体を動かす部分になると、もうメロディーが分からなくなってしまう。

 

 いくらみっちりと教え込んでも、本人の意志がなければ、結局覚えられないものなのだな、と実感した。昔、確か養老孟司さんがどこかで書いていたが、続けなければならないことなら好きになるしかない、と。つまり自発的な、自分からそこに向かって一歩を踏み出すようなエネルギーが必要になる。それがなければ自分のものにはならないのだろう。

 

 

 ロールシャッハテストはマニュアルどおりに解釈できるものではないし、テスト施行についても経験や自分なりの工夫なども必要になるもので、勉強してすぐに身につくものではない。難しいと勉強に手をつけることにひるんでしまう人も多いようだ。

 私の場合、学生時代にある先生(もともとは精神科の医師を長く続けてから大学の先生になった人だった)が心理の人に期待することのひとつに心理検査がある、医師にはできない心理ならではの仕事だ、と言っていたのを聞いて、ロールシャッハの勉強に積極的に取り組むようになった。初心者の頃は自分の仕事にとても自信が持てない。ひとつでも自信が持ってできるようなものが欲しかったから、とにかく必死だった。スーパービジョンでロールシャッハのケースをたくさん見てもらったのも今から思うととてもいい経験だった。

 自信がなかったからこそ自分からロールシャッハテストに取り組まざるを得ず、それがかえってよかったのかもしれない。

 カウンセリング、面接をしていてもロールシャッハテストをきちんと勉強しておいて良かったと思うことは多い。あまりよく知らないが、少しでも簡単にロールシャッハが解釈できるようなシステムがいろいろとあるらしい。しかしそれに頼るのも、心理の仕事の醍醐味を失うような気がして、もったいないように思う。

 

 

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