前回(生きるための心理療法)に引き続き、何かのセミナーか講義のために用意されたと思われる資料です。2008年10月に作成されたもののようです。冒頭にある「心の発見」は、このシリーズの一番最初に掲載した「西村臨床心理学」の最初に書かれた部分を指すと思われます。
視点の多様化
心の発見で述べたようにこれまでの臨床心理学は意識と無意識、前意識、普遍的無意識、類心的な心などを区別して考えてきました。
人は先ず動物であり、年齢によって変化する精神を持ち、家族を持ち、また社会集団を形成し、歴史と文化を背負った存在です。人の心を見る場合に、このような様々な側面を多く持っているので臨床心理学においても視点の多様性を受け入れ、思いつく多様な視点から考える方が良いのではないかと思います。
河合隼雄の『ユング心理学入門』の第1章に心を研究する方法論が述べてあります。当時現象学が流行っていたので、現象学を意識し、すべての前提を排して本質を直観することは難しいと述べ、できるだけ多様な視点から心を見ていくと河合隼雄は自分の立場を説明しています。できるだけ多くの視点からと言っても、その内容には触れてありません。分析心理の実際においていろいろな観点から見ていたことは様々な領域の人々との対話からも伺われることです。私はその立場に立って多様な側面から見ていきたいと思います。
一例として嫁姑の対立の事例を考えて見ましょう。嫁と姑の対立は多くの相談事例の中に出てきます。
一つの台所に女二人と考えたとき、狭い空間にやり方の全く違う二人が協力して働くことができるかと考えるとそれはとても難しいことがわかります。台所一つとっても二人の女性の住み分け方を考えなければなりません。
そこに加齢の視点を入れると、姑は引退して行き嫁は中心的な立場に立つことになります。嫁が働くと姑は台所に立ち、子育てまでしなければなりません。
次に姑が嫁だった時代の文化から見ると、家の中で女は朝から晩まで働きづめでした。家の中に住まう人だけでなく近くに住む子どもたちや親戚の人々、おまけに隣近所の人が家に自由に出入りしていました。それらに付き合って行くのは女の役目でした。女は三界に家なしと言い、自分の空間はありませんでした。家業や家事労働があり人付き合いがあり、それら全部を受け入れていたのです。それに対して現代の核家族の考え方は、家の内と外、家業と家事、子ども、親戚、近隣とすべてに仕切りを入れ、家の中の女性も自分一人の空間と時間を持つことを考えるようになりました。ここには古い文化と新しい文化の齟齬が生じることになります。一旦造られた文化は変わることはありません。アメリカに移住した人々がリトル東京を作って安心感を得るように、人々は家庭の中でも自分の文化を維持しています。3世代家族は祖父母と父母、そして子どもたちの3つの文化が共存しているのです。しかし、家族は一つだと考える人には3つの文化を認めることは困難です。私たちが相談で直面する問題はこのようなものです。
生物学的な観点で見ますと、夫婦は男と女であり性的な関係で結ばれています。また、夫婦は父親と母親であり子どもたちの親です。親子の関係には性的なものは入ってきません。この関係は心理的というよりも生物学的なものです。夫婦は性的な雰囲気になったとき互いを異性と感じるのですが、父親と娘になったときは親子の感じになります。これは我が家の猫を見ても母猫と息子は親密ですが決して異性関係になることはありません。互いに発する匂いが親子の匂いであって、異性に出会ったときの匂いと違うのではないでしょうか。人間でも父娘、あるいは母息子の関係に性的なものは入ってくることは無いはずです。近親相姦の事例が稀にありますが、心理的な異常というより生物学的な異常と見るべきでしょう。近親相姦の事例では生物学的な異常が起こるほどに何か無理なことが生じていると見るべきです。
おサルの集団の中でボスザルの存在は大きく頼りになる存在である必要があります。それでこそ守られて安心感が出てくるのではないでしょうか。その観点から家庭を見ますとボスザル的な存在がおじいさんになっていると、父親も母親もボスの支配下に入っていることになります。ナンバー2の父親、その下のナンバー3か4の母親の存在大きくありません。サルの世界では母親は命を懸けて子どもを守りますが、人間の世界ではどうでしょうか。学校社会に不安を覚えている子どもをあえて、学校に行きなさいと外に押し出そうとする母親を見ると、子どもの不安に本能的に反応していないか、不安を無視していることがわかります。
現代の自立志向の社会生活文化から見ると、不安におびえる子どもを敢えて外に押し出そうとする母親の態度は子育ての方法として間違っていないかもしれません。これは今までに無い新しい文化です。このような子育てをキタキツネの世界に見ることができます。ある発達段階に達すると親は子どもを外へ押し出すのです。
ある小3の子どもの場合、学校が3時に終わります。母親は家で4時から仕事をしていて、早く子どもに自立してほしいと願っています。4時までに片付けないといけない仕事がいろいろとあるので、自分で帰ってきてほしいのですが、子どもは母親に電話をかけて迎えに来てほしいと先生に頼みます。先生もみんなと同じようにこの子は自分で帰るべきだと考えます。でも、この子は母親に迎えに来てほしいのです。なぜなら、母親が車で向けに来てくれたら母親と一緒にいる時間が少しでも長くなるというのです。車で迎えに来れば時間も短縮できるし、家で母親が4時まで家事をしている間も傍にいることがきると子どもは考えるのです。これが現代の自立する子どもの考え方だと思います。
母親が運転していたり,家事をしてる間も傍にいたいという生物学的欲求を彼女は捉えようとしているのです。チャンスを見つけて自分のほしいものを得ようとする生き方ここにあります。自立を強いられる子どもたちの新しい文化ではないでしょうか。心理臨床の場面で生物学的な見方と各時代の文化とを織り交ぜながら多面的に見ていくと、子どもたちや母親、父親、あるいは社会との調和を図っていく生き方を見つけることができるように思います。
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