明日に向かって 最終講義2007年4月

 「最終講義 ダンケ 2007年4月15日」というタイトルで保存されていた文章です。椙山女学園大学退官後、おそらく檀渓心理相談室で行った「最終講義」だと思われます。

 

 

 

明日に向かって

 

西村 洲衞男

 

1 はじめに

 この講義は大学で行った最終講義に代わるものでもありますが、これから先のために私が考えていく方向を検討したものでもあります。西部劇『明日に向かって撃て』は強盗を働いた二人が追い詰められて望みのない戦いを挑みます。私の戦いもそれに近い感じがしています。今この場で少しでも関心を持っていただければ幸いです。

私の発想と考えは今までの心理学の流れとは違い、多くの人がそうかもしれないという程度のもので、一般化には程遠いので皆さんには受け入れがたいものがあるのではないかと思います。その点、強盗と同じくアウトローなのです。

 

2 まだ働きたい気持ちと老醜

 自分の気持ちとしては若く、今も10年前も、そして10年後も同じではないかと考えます。一方、身体は衰え、体力の低下、皮膚の老化は醜さを増して行きます。老醜はどうすることもできません。老いは、この人は頼りになるだろうかという印象を与えるので、仕事がしづらくなります。この-点をカバーするような新しい知識を考え方を持って前進していかなければと思います。年老いた人に若い人はついてこないのではないかと思うのです。自分はまだ現役だと思っているときに、若い人から誰に指導を受けたらいいですかと聞かれたとき、私は若い人から遠く離れているのだと思いました。ですから、私は第一線から次第に退いて、自分だけの道を歩いていく覚悟が必要なのかと思います。

 

3 来談者中心療法の基礎

 これはロジャーズに発するものと考えています。実際は誰もが経験していること、友達や親に、話をすっかり聞いてもらうと心がすっきりし、新しい地平が開けてくるような明るい気持ちと安心感が生まれてきます。ここに批判無しに聞くという態度が心理療法的に効果的なことがわかってくるのです。

 ここに共感と受容と言葉を入れると、日常的に行われている、聞くという心理療法の技法が生まれ、それと同時に、どこまで共感したら言いのか、どこまで受容したらいいのかという疑問が湧いてきます。これは答えるのが厄介な問題です。

 日常的に相手の話をありのままに聞くということが、普段の気持ちで行われていると、聞くにも限度があることがわかる。あの人の話は聞いてあげたいけれど、聞いていいると辛くなるとか、怒れてくるということがあるのではないか。それは普通人としての当然の反応で、それが相手の抱えている問題を考える重要な手がかりになると思います。異常か異常でないかの判断の基準は普通の感覚だからです。

 ただ、私たちカウンセラーは相手の話を聞き、それをありのまま記録し、改めにそれを検討することで一般の人と異なるのです。

 

4 心に焦点を当てる聞き方

 心にはいくつかの相や側面があります。

 私という意識する主体があります。この意識する主体が主体性を持っているときは普通で、主体性を失ったときは異常です。意識を操作するものが私意外にあると困ります。損をすることはわかっているのに稼いだお金をすぐにスロットにつぎ込んでしまうという人は意志薄弱と言われ、主体性を失いやすい。もっと、主体性が弱くなると、お金を盗って来いと心の中の声がして、その声に従うかもしれない。そうなったら意識の主体性が失われている。そこで、精神異常ということになる。異常と普通は案外簡単な基準で決められているのではなかろうか。

 考えや感情。考えにもいくつもあり、互いに矛盾する考え方同じ心の中にあり得るし、いろいろな気持ちがあり得えます。愛を拒否されると激しい怒りが出てくることがあるので、愛の裏には憎しみがあると考えられています。感情を十分に表現させ、認識を新たにしていくと調和の取れた気持ちに至るのではないかと分析の技法が考えられる。

 親子の、あるいは、夫婦の関係で緊密な信頼関係を築くべきだという考えもあるし、互いに独立した人格だから適度に離れた方が良い関係をできるという考え方も成り立つ。そこに考えの調整というカウンセリングの技法が出てくるだろう。

 感情や考えよりのもっと深い層の、可能性に争点を当てて聞いていくいき方もある。可能性の層は未だ明らかでないから、無の世界に焦点を当てることになる。無の世界は思いつきやひらめきで明らかになる。言葉で考えや気持ちではっきりしたときは、もうすでに次のところに移動しているので捉えがたい。態度や考えや気持ち、いろいろあるけれども、もっとも深層に動いているものは何かを考えていく方法がある。このもっとも典型的なものは遊戯療法や夢分析や自由連想法ということになる。

 

5 査定の新しい基準

 精神病理学は今流行らなくなって、アメリカのDSMが流行っている。しかし、このDSMは状態像による評価で、これによって診断しても治療法はまったく検討がつかない。治療に役に立たない診断基準になってしまった。これでは使ってもそれ以上の価値はない。つまり、保険請求のための診断なのです。

 治療に役に立つ診断は今の医学会には見出せない。それなら、心理臨床の領域において、カウンセリングに役に立つ査定を考えていく必要がある。

 大まかに、統合失調症、うつ病系、強迫神経症系、不安神経症系、対人恐怖系、解離系に分けてみる。

 意識の態度によるわけ方

 意識が人間関係に向いている人、外向型、内界のことがほとんどわからない人。

 意識が内界に向いている人、内向型、人間関係のダイナミックスがあまりわからない、わかってもそれを操作的に扱うことが難しい。

 このように意識の態度によってわかる心の世界が異なる。

 

6 自我の素直な発達に父親殺しは必要でない

 来談者中心療法には父親殺しの考え方はない。父親殺しの考え方はフロイトの精神分析に拠っている。フロイトは神話の中でも特殊な『エディプス神話』を取り上げた。ユング派ではノイマンが太陽神話を元に、父親殺し、母親殺しを考えた。われわれは長い間この神話に拠ってきたけれども、もうそろそろ脱神話をしても良いのではなかろうか。

 果たして、自我の成長に父親殺しは必要か? 私は必要でないのではないかと考えました。父親殺しが必要な人は父親に虐待された人ではないかと思われます。フロイトはエディプス神話を信じたいほど、変な育ち方を下のではないでしょうか。

 父親に教育されたモーツアルト、父の後を継いだハンマー投げの室伏選手、ゴルフの中島常幸選手、などなど上げれば限がありません。河合隼雄先生も父親殺しのテーマは見当たりません。

 むしろ、偉大な人は父親によって育てられたと言っていいのではないでしょうか。被虐待がなく、素直に育った人たちは父親が開いてくれた道を素直に歩み、周りの人々の温かい援助によって成長していくのです。そして、みんな良い先生に出会って教えられています。良き師との出会いはとても重要な気がします。

 良き師との出会いは何によって導かれるのか。それは学ぶ意欲、その学ぶ意欲が強く真摯であればあるほど、良い先生に出会う可能性があるのではないでしょうか。良き師はほとんど教えないので、自分の経験から学び作り上げていくほかありません。

 だから、良き師に従っている人は成長がありません。先生の下で自分の経験から学んでいる人は成長していくように思います。自分の考えに従わせる人は先生とは言えないのではないでしょうか。

 

7 母親殺しも必要ではない

 ユング心理学では魔女は悪者で、殺されねばならないという考えがあるのではないでしょうか。

 魔女は女性を一人前の女に育てるためにどの物語でも重要な役目を果たしています。その育て方が厳しく虐待的になると、継母として最後には殺されるというテーマがあります。

 現実の人間関係において、娘と母親の関係はとても重要で、大人になってまるで友達のように自由に何でも話ができる関係が理想と思われます。男性の場合も、母親との間で愛着を十分に経験することが外で対人関係を持つために必要な条件になっています。

 娘も息子も母親との愛着の経験が不足すると、それを補うような異性との関係が発展することが期待されます。あるいは、師を仰ぐ人との関係でその不足分が補完されることが期待されます。児童養護施設でその観点で見て対応していくと、子どもは信頼関係を築いていくことができます。

 人は戦いの関係ではなく愛情と尊敬の関係の中で、人間として成長していくのではないでしょうか。

 ただ、武士道や騎士道は社会の規範として重要な道徳律を提供してきました。それらは洋の東西を問わす、戦乱の中で醸成され磨かれてきたのでした。平和な社会の中にあっては戦争によってできた道徳律は崩れていくのです。

 

 

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