師弟

長谷川泰子

 

 「師弟 棋士たち 魂の伝承」(野澤亘伸著 光文社文庫)を読みました。あまりにおもしろかったので、この本の続編とも言える「絆 棋士たち 師弟の物語」(野澤亘伸著 日本将棋連盟)もすぐに購入してあっという間に読んでしまいました。将棋は駒の動かし方を知っている程度で、少し前の藤井ブームもほとんど興味を持たず過ぎてしまいましたが、この本のおかげで今まで全く知らなかった将棋の世界に触れ、棋士という存在に興味を持ちました。

 タイトルからも分かるとおり、この2冊の本は、棋士に対して「師弟」というテーマでアプローチした本です。将棋界のトッププロたちのなかから何組かの師弟をピックアップし、インタビューしています。

 私はこの本を読むまで、将棋の世界に師弟制度があることすら知りませんでした。プロの棋士を目指すにはまずは試験に合格して“奨励会”というところに入ります。ここに属している間に一定の対戦成績を残さないとプロにはなれません。つまり、奨励会会員の三段の者同士のリーグ戦で1位と2位になったものだけが四段に昇格、奨励会を出てプロの棋士になれるのだそうです。およそ35人程度の棋士の中から2人だけの狭き門です。しかも奨励会には年齢制限があり、26歳までに四段昇格できなければ奨励会退会となり、プロになる道は完全に断たれることになるのだそうです。

 奨励会に入るときに必ず師匠を決めます。将棋はとにかく考える力が柔軟で体力もある(ずっと正座で対局、決着がつくのが深夜ということも珍しくない)若いうちが勝負で、スタートは早ければ早い方がいいのです。この本に出てくるような第一線で活躍するような棋士たちは皆10歳前後で奨励会に入り、将棋づけの日々を送り始めています。学校に通う時間がもったいないからと高校に進学しない人も珍しくありません。奨励会に入るということはすでにプロを目指すことを意味しています。つまり10歳前後、小学生のうちに自分で自分の人生を決め、師匠も決めるのです。

 多くの場合、はじめは周りの大人になんとなく将棋のルールを教わり、あっという間に夢中になってめきめき力をつけ、プロを意識するようになるようです。親もまさかプロ棋士にしようと思っていたわけではありません。子供が自分で決め、自分で自分の人生を選び取っています。すでに子供のうちから独立した個人として動き始めています。対局の間は一人の戦いです。どんなに苦境に陥っても、自分ひとりで考え切り抜けていくしかないのです。子供とはいっても、自分で見て考え、ひとりで立ち向かっていけるような強い自我がないと将棋の世界では生きていけないのでしょう。この本の中で、藤井聡太二冠(現在)の報道陣に対する受け答えが非常に落ち着いていて自分を客観視することがすでにできているように思うと話している棋士がいましたが、このような世界を生きていれば、何物にも動じない確固とした自分が生まれてくるのも当然だと思いました。

 この本の著者はもともと写真家で、著者が撮影した棋士たちの写真もたくさん載せられています。師匠と弟子の写真を見て興味深かったのは、師弟が親子ほど年齢が離れていても、どういうわけか親子のようには見えないことです。年の離れた兄弟のように見える師弟はいます。しかしそれでも、どの師弟の間にも一定の距離があるのです。

 インタビューを読めば師弟の関係の深さは良くわかります。弟子を取るということはその子の人生を預かったのも同然で、師匠のほうもなんとかプロにしないとと力が入ります。弟子の方も10歳前後で将棋の世界に入り、頼れるのは師匠しかいません。タイトルのかかった大事な対局で師匠からもらった扇を使ったり師匠から送られたスーツや着物を着て対戦したり、対戦の結果を真っ先に師匠に電話で報告したり、棋士たちが自分の師匠を強く信頼していることを示すエピソードはこの本の中にふんだんに示されています。師匠を必ず持たねばならないというのは、結果がすべてという父性的原理の厳しさを補うために母性的原理を取り入れようとして出てきたルールなのかもしれません。

 しかし写真を見ると、師弟の間に母子関係的な濃密さを思わせるような雰囲気がまるでありません。

 公式戦での師匠対決というのは時々あるようです。師匠も弟子も現役の棋士であり、師弟でありながらもライバルで、お互いに上を目指して切磋琢磨する仲間でもあるのです。当然のことですが、師匠対決となってもお互い一切手加減せず、正面からぶつかっていきます。弟子が勝てば、師匠の方が「負けました」と頭を下げることになります。棋士にはそれができる自我の強さが必要なのでしょう。そして弟子の方もそれを謙虚に受け止める自我の強さが必要です。

 師匠がどれだけ熱心であったとしても、強くなるのは個人の才能と努力です。だからこそ一旦プロになればそれぞれが独立した個人であって、弟子であっても相手を独立した個人として認め、尊重するような態度が出てくるのだと思います。弟子の方も独立した個として確固とした自我を持つからこそ、謙虚に師匠を敬うところが出てくるのでしょう。師弟の写真にはそういった雰囲気も写しだされているように思いました。

 

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