長谷川泰子
腰痛はやっと少しずつ良くなってきました。思いのほか時間がかかっていますが、同じようなタイプの腰痛になった人がまわりに何人かいて、皆、よくなるのに結構時間がかかったと言っているので、これも仕方ないかと思っています。
腰痛になって残念なのは走れないことです。3年ぐらい前から走り始め、最近は5~8キロを週1~2回走るのが習慣でした。旅先にウェアとシューズを持っていって走ったこともあります。
「性格に合っているからやってみたら」と友人に勧められたこともあって走り始め、今では走るのがちょっとした楽しみにもなっていますが、それでも「この私が走るようになったとは!」という驚きはいつもあります。
走り始めたのは自分の人生に革命が起きたといってもいいほどの大きな出来事でした。
全くと言っていいほど運動ができない子で、逆上がりを補助なしで一人でやれたことは一度もありません。50メートル走るのに(小中学生の時はスポーツテストというものがあり年に一回必ず50メートル走らされました)10秒を切れたことがないのです。11秒を切るのがやっとでした。体育の授業でサボっていると疑われ、真面目にやれと先生に叱られたことがあります。何故怒られたのか訳が分からず、後から理由が分かって悲しかったのを覚えています。通知表の体育の成績は5段階評価で1、2がつくと少しホッとしました。高校を卒業して体育の授業がなくなったときは本当に安心しました。新しい人生の始まりと感じられたほどです。
こんなふうだったから、スポーツをやってみようという気にはとてもなれないのです。運動をしているのを見られることが恥ずかしい。ぶざまな姿を見られて笑われているだろうと思ってしまうのです。
運動不足を心配して歩くようにはしていました。ゆっくり歩いても意味がないので速足を心掛けていましたが、ある時、こんなに必死に歩くなら走った方が早いかもしれないと、試しにちょっと走ってみたのです。夜だったので周りに見られる心配もなく、気軽に試せました。
意外に走れてびっくりしました。昔、学校で持久走をやらされた時とは違い、自分のペースでゆっくり走っても構わないし、止まってもいい。そう思うと気楽に走れました。友人から勧められてはいたものの、真剣に聞いてはいませんでした。できるわけないと思っていたのです。でも、走るのは一人でできるし自分のペースでやれる、特別な技術も用具も必要ありません。とにかくこつこつ続けるだけです。それが確かに自分に合っていたようです。
自分にも走れるかもしれない、続けられるかもしれないと、専用のシューズを買うことにしました。でもこの私がランニング用シューズを買うということ、もうそれ自体が恥ずかしいのです。スポーツ用品店に行くことさえ抵抗を感じました。自分には場違いなところとしか思えません。お店にいる人は私がびっくりするぐらい運動ができないのがお見通しなのではないかとすら考えてしまいます。本当はお店の人に相談して初心者向けのシューズを買ったほうがいいのでしょうが、とてもそんな高度なことはできず、山積みになっていたバーゲン用のシューズをサイズだけ確認して買ってきました。
コンプレックスがあると物事を冷静に見られなくなる、自分に自信がないからこそ相手が必要以上に大きく見えてしまう、そういったことは知識として知っています。しかし自分のことになると別問題になってしまいます。知識があるからといって落ち着いて穏やかに考えられるかと言うとそうではありません。やはりコンプレックスはコンプレックスで、これまでの様々な体験や、それに伴ういろいろな思いをよみがえらせ、穏やかな気持ちではいられなくなります。
走ることを続けていて、走るのは楽しいと感じられるようになった今でも、スポーツ洋品店は苦手です。スポーツブランドのロゴがついた服を着るのも恥ずかしい。無理をして合わないことをやっているような気分になり、人に笑われるように思ってしまいます。
ただ、こういう私の体育・スポーツに対するコンプレックスも、人に話せるものだからたいしたものではないでしょう。本当のコンプレックスはおそらくとても人には言えないものです。自分でははっきり気がついていない、意識していない場合も多いでしょう。知らないうちにコンプレックスは冷静な判断を狂わせ、ある領域に踏み込むことを避けるようにし、何かを見たり考えたり体験することを避けるようにしてしまうところがあるようです。コンプレックスの側ではコンプレックスなりの理由・理屈があるのでしょうし、コンプレックスに対峙する私の意識の側にもいろいろと言い分はあるのでしょうが、コンプレックスが新たな方向性や可能性を見えなくしているところも確かにあると思います。
走るなんて自分にはできないことだと長いこと思っていました。しかし自分のペースで走れば走れます。速くなくてもたくさん走らなくてもきれいに走らなくてもいい。走るぐらいのことで大げさな、と思われるかもしれませんが、今までとても無理だと思っていたことがそれなりにやれるんだ、やりようはあるんだ、と知ったことは、もう若いとは言えない自分の人生にとってひとつの革命だったように思っています。