臨床心理士の連帯の意義 法華経従地涌品に学ぶ

心理臨床学研究第9巻第3(1992)に巻頭言として掲載された西村洲衞男先生の文章です。西村先生のご家族と日本心理臨床学会の許可を得て掲載します。(所属は1992年当時のものです)

 

 

 

臨床心理士の連帯の意義

法華経従地涌品に学ぶ

 

西村洲衞男 愛知教育大学

 

 

 

最近の本字会の大会の研究発表や研修内容を見ていると,心理療法への関心が高く,臨床心理士は次第に心理療法士の代名詞になりつつある。昭40 年代の初め,心理療法と心理診断はどのように統合していけるかについて学会で議論され,るいはクライエントを患者と呼ぶべきではないと教えれたことが遠い昔のことになってしまった。そして今,私たちは診断的な見方を深め,心理療法を行い,「患者」や「クライエント」といった用語の区別の意識を超えて心理療法を求めている人びとの役に立つことを目指している。このことは私たちの心理療法がクライエントと共にあって,有効な手立てになってきていることを示している。こうなると今はそれほど心理療法の仕事をしていなくとも,将来に向かってほとんどすべての人が臨床心理士として心理療法を考えていくのは当然のことになる。現在大学院に臨床心理士を目指して入ってくる人たちはほとんど心理療法に動機づけられている。

心理療法に関するセミナーは希望者が多く,特に資格認定協会が開く研修会は,手紙が届くのが1日遅い地方の人に不利なくらい申込者が多いようである。この研修会繁盛の現象は,この学会が若く,みんなが研修を必要とするばかりでなく,心理療法自体が常に研修のためにより多くの人びとの連帯の支えを必要としているからかもしれない。その点について,法華経のなかの一章をひもといて考えたい。

私が法華経に関心を持ったのは,ホーナイ,K.の後継者である近藤章久先生の導きによるもので,先生ご自身の体験が私にとって大変興味深かった。先生は,あるとき,自分が大地のなかから地表にぬっと出ると,向こうで仏陀が説教している夢を見られた。この夢をある高名なお坊さんに話すと,それは法華経のなかにあると教えられたので,法華経を開いてみると,自分が夢で体験した情景がそこに書いてあったというわけである。

妙法蓮華経従地涌出品第15 は次の妙法蓮華経如来寿量品第16と並んで法華経のなかでも特に重要なお経のようである。このお経の内容は次のようである。

世界の方々から集まってきた良家の善男子,偉大な志を持って悟りを求める者(菩薩)が仏に向かって,仏が完全に平安な境地に入られた(仏滅の)後に,この娑婆世界でこのお経を広めることを許してほしいとお願いした。

すると仏は良家の善男子たちに,汝らは何故にこの仕事に係わり合うのかとその申し出を断った。

娑婆世界において,無数の菩薩が,ひとりの菩薩の持者となっている。その無数の菩薩の一人一人にまた無数の菩薩が待者となっており,波らは仏滅の後にこのお経を護持し,読誦し, 説くであろうと仏は言った。

仏がこう言うやいなや,この娑婆世界はあたり一面に亀裂が生じて割れ,その裂け目から,無数の菩薩が現れ出てきた。波らは身体が金色をし,偉大な人物の具えるベき32種の吉相を具えていた。そして仏の言葉通りこの菩薩たちの一人一人が,無数の菩薩たちを侍者として連れており,弟子の集団を持つ人であり,弟子の集団の偉大な統率者であり,師匠であった。

この菩薩の大集団の上席にいた4名の偉大な菩薩(他の世界からきた良家の善男子),大地の割れ目から生じてきた菩薩たちは挙動がすぐれ, 理解力がすぐれ,指導しやすく,浄化しやすく,仏を悩ますことはないのでしょうかと問うと,は次のように語った。

まったくそのとおりで,余に浄化される間に余を悩ますことはない。何故かと言えば,余に属するこれらの者たちは過去世に完全に仏陀の許で準備を整えているので,見るだけで,また聴くだけ,余に傾倒し,仏陀の知恵を理解し,それに没頭するのである,と。

 以上は法華経の従地涌出品第15,すなわち「正しい教えの白蓮」の14「悟りを求める者の大地の裂け目よりの出現」の前半の要約である。近藤先生の夢は,大地に亀裂ができてその割れ目から無数の弟子を連れた菩薩たちが出てきて仏の説教を聴くところに対応しており,先生を心理療法家として宗教的に基礎付けるものとなったと思われる。この夢を聴いた私はそれほどの宗教的なアイデンティティを持つことは不可能と思いながらも, 法華経を開いて心理療法を宗教的な体験と照らし合わせてみて,どのようなことが大切かを考えてみた。

まず,方々から集まってきた菩薩たちが登場する。それも良家の善男子たちと呼ばれているので,育ちのよい苦労していない優等生的な菩薩たちであろう。彼らは仏に教えを広めることを願い出るが, 仏は汝らは何故の仕事に係わり合うのかと言ってその申し出を断ってしまう。つまり,良家の善男子を頼りにしないと仏は断ってしまうのである。そして, 尊い教えを広める者は弟子を持った人びとであると言い, その言葉が発せられると, 無数の菩薩たちが大地のなかから涌いて出てきたのであった。仏が良家の優秀な善男子を断って, 大地のなかから出てきた菩薩を頼りにするということが私には興味深かった。

どういう人が心理療法家として相応しいかを考えたとき,自分と周りに居る人びとを見てみると, 苦労なく育った優等生よりも, 苦労を重ね, その経験を培って自分なりの人間観を持ち,他者を援助していこうとする人の方が心理療法に向いていると感じられることが多い。法華経の著者は明らかにお経を広める者は人間世界で苦労してきた人が相応しいと考えていたのである。そしてまた心の問題の解決に努めようという私たちは図らずも同じ考えに至っていると思った。こういうことから諸々の仏典に書いてあることと心理療法の理論を対比して考えていくことが有意義なことを知ったわけだが, 法華経によれば,人びとを導く菩薩の資質としては学問的な難しい理論の構築よりも, 人間的な経験, それも苦労を克服して培った人間的な力が重視されているのである。心の問題の解決を目的とする心理療法についても同じことが言えるのではなかろうか

そうなると, 優等生と苦労人と比較して,優等生は心理療法家には向かないことになるが,優等生の悩みは優等生しかわからないかもしれないから優等生の心理療法家も必要なのである。ある女子大の先生が, 学生たちは先生たちに対してずいぶん好き嫌いが激しく,嫌われる先生もいるけれども,よく見るとどんな先生にも大体学生が付いているかろ不思議なものです,と言われたことがある。これと同じように,誰もが優れた心理療法家にはなれなくても,誰かのこころを癒すことはできると言ってもよかろう。おそろく 一人一人のこころのなかに人間的な経験を培った分だけ心理寮法家が育っている。そのように考えると誰もが心理療法家に,そして菩薩になることができるかもしれない。

次に,この菩薩たちが過去世に完全に悟りを開いた仏陀の許で進備を整えられているという点について考えてみよう。これは心理学的に言えば, 彼らは先天的に悟りを開くように用意されているということである。そこで,生まれつき心理療法に向いている人があるということが考えられる。みなさんはどう感じておられるだろうか。

私などは少しばかり憧れてこの道に入ったので,頭で心理療法の技法を考え工夫している間は,勉強していけば何とかなるのではないかと思っていたが,分析も受け,心理療法のプロセスを見る目ができてきたとき,その目で自分の心理療法を省みると,自分の至らなさが見え,自分は心理療法の解説者ならまだしも,心理療法には向いていないのではないかと苦しい思いをした。幸いにもこの点に関しては,自分の弱点を克服することが心理療法を深めることにつながっていくということを自分の分析を通じて知ることができた。分析を受けるだけで問題が解決したわけではないが,分析を通じてその方向へ動いていくと,問題は今までとは違って,自分にとって有意義なものとして見えてきた。その問題に取り組むことによって,他の人びとの分析にも積極的になることができた。仏が私に与えてくれた先天的な知恵が,私自身の内面的な省察によって開かれることが少しだけわかってきたのである。

分析を受ける機会を持つことのできた自分は幸運であった。しかし現実には研修の機会も少なく, 自分の適性を疑いながら不安な気持ちで心理療法の仕事に携わっておられる方があるかもしれない。研修の機会が少ないのは私たち年配者はみんな同樣である。特に若い人に対するスーバービジョンに精を出していると心理療法は下手になり,自分のケースについてスーバービジョンを受ける機会が少なくなりがちである。

心理療法は若いときは若いときの,年を取ったときはその年に相応しい仕事ができるものだと思う。おそらく誰もが心理療法家になることのできる資質を持っているはずである。仏は久遠の昔から私たちを教え導いておられるわけだから,その悟りに開かれている自分を発見することができれば心理療法にも開かれるはずである。しかし,それに気付くことはなかなか容易なことではない。ときには自分のなかを見つめれば見つめるほど自分の力のなさを実感するのである。そういう弱い自分を支えてくれるのはスーバーバイザーやグループである。

法華経において,仏様の教えを広める菩薩たちが,ひとりの菩薩の弟子となり,また自らもたくさんの弟子を持ち,弟子を教え導き,弟子の集団の統率者としてあるということは注目すべきことである。このお経のなかには侍者を持たない菩薩 もいると書いてあるが,ほとんど大多数は弟子の集団を持っているのである。宗教的な体験そのものは一人一人個別的であるように見えながらひとりで修行し悟りを開く人は独覚者として区別されている。法華経では統率者のいる集団が特に重要視され,菩蓬が集団で修行することが大切であると強調されているのである。

私たち臨床心理士も大きな集団を作って研修を重ねている。集団のなかで事例研究の発表を行うことによって,その個人的な経験は人びとのものとなり,そこに普遍性が出てくるのである。多くの人に埋解され,認められることによって,フロ ム,E .の言う合理的自尊心が養われ,心理療法家は真にクライエントを尊重し,愛し,そして成長を援助することができるのである。また,私たちの集団が一人一人の個性を尊重しながら,協力し, ときには各々自由に,ときには良きリーダーの下 に一致協力して仕事をしていくことができることが,臨床心理士にとってこの上なく大切なことで ある。私たち臨床心理士には医療のような技術も薬もない。あるものはこころだけである。それは相互の研修と協調していく人間関係によって育て られていくものである。このチームワークに支えられた心理療法のなかで,クライエントはこころ の安全を保障され,成長していくことができるのである。

心理療法家の重要な資質の一面であるチー厶ワークの持つ力は,クライエントの社会的な適応を促進し,家族の良いチームワーク形成にも役立つのではなかろうか。私たちはいつも自分の雰囲気を通して自分の内的な資質をクライエントに見せている。それらは非言語的にクライエントに雰囲気として感じとられ自然に取り込まれていくに違いない。社会的に適応することの下手な人にとって,心理療法家の人間的な生き方はその見本としていつも注目されているので気をつけなければならない点である。

また,このチームワークは有能な者ばかりの集団とはかぎらないであろう。菩薩の集団は60のガンジス河の砂の数ほどの菩薩の集団であるから おそろくいろいろな人が含まれていよう。ただ過去世において仏陀に導かれ悟りに開かれている人びとであるから,そこに共通の人間的なつながりの可能性がある。したがって,私たちの集団はさまざまな人を受け入れ,協力していくことで人間的な豊かさを培い,それによってクライエントを幅広く援助していくことができるのである。

本学会ならびに臨床心理士会の現状は法華経の「悟りを求める者の大地の裂け目よりの出現」の状況に似ていないだろうか。今続々と心理療法家を目指す人びとが現れ出ている。そして,多くの人が自分の症例を持って事例研究に参加し,心理療法家として成長しつつある。

 このような状況のなかで,上に述べたようなこと考えをめぐらせていくと,心理療法を中心的な仕事としていく私たちの研究は,将来の人間社会の人びとの生き方や人間関係の在り方を模索するために,私たち自身の連帯を実験的な試みとして進めているようにさえ思われるのである。

2019年7月撮影 檀渓心理相談室にて