悩みの重さ

たましいの重さはどれくらいであるか?

相談に見える人は、それぞれに悩みを抱えている。アトピーやうつ的な気分や人とうまくやっていけない悩みなどである。アトピーにはステロイドが効く。薬を塗って治るくらいの症状なら軽い。うつ病治療の薬を飲めば少しくらいは治るのではないかと希望が芽生える。悩みにはそれくらいの重みしか無いと思うのが普通である。

しかし、別な視点から見ると、そこにはその人のいのちがかかっている。いのちをかけて悩んでいるところを引き出すのがカウンセラーの仕事ではないか。わざわざそんなに余計な悩みを引き出さなくても応急措置で悩みを軽減できるなら良いのではないかと普通は考える。それで済む人は良いが、その悩みが何十年も続く人があるから、抜本的に考えて見みようとするのが私たちの立場だと思う。

かつて、仕事を変わった時、新しい職場で私は手指の皮膚炎にかかった。ある皮膚科に行くと、そこの女医さんは、私が猫を飼っているので猫アレルギーではないかと言われた。猫は何年も飼っていますと説明しても、女医さんは怪訝な態度であった。何年も一緒にいるのになぜ今猫アレルギーになるのかと頭にきてやめた。女医さんは猫アレルギーと考えてそこから考えを広げることができなかったのである。それは女性のたましい、アニムスのしわざである。

私にとってアトピーは手指の病で、私の存在をかけた悩みではないと思っていた。しかし、ある時、研究室を訪ねてきた学生が私の指を見て、自分もアトピーだったが、ステロイドを使わないことにし、痒み止めのムヒにもステロイドが入っているものがあるので使わないと言った。私はそれ以後薬を全く使わないことにした。そして、新しい職場に対して感じている違和感に対して、こんなことに負けてたまるかと思った。その思いには私の全存在がかかっていたのではないか。それ以後手指の皮膚炎は急速に消失した。学生のアトピーもステロイドを断固として断った時良くなったのではないか。つまり存在をかけて悩み決断した時、何か新しいものが始まるのではないか。

手指の皮膚炎は身体の一部の疾患でしかない。しかし、その症状が示唆するところをいのちをかけて悩む時、悩みはたましいの重みを持ったものとなり、その人に生きる道を開くのではなかろうか。

カウンセラーというのは、自分のいのち、たましいの重みをかけて仕事をしている人とならなくてはならないのではないか。

心理療法の教科書に照らして、技術的なことだけを考えてやっているカウンセラーは頭だけでやっているから、軽くて、頼りにならない感じがする。カウンセラーとして生きる、そこに全存在がかかっている、それがカウンセラーの大事な条件ではないか。

学校の軒先を借りてやっているスクール・カウンセラーはどうだろうか。

学校は知的能力や体力や困難に打ち勝つ精神力を伸ばすところで、みんな一所懸命にやっているけれども、いのちがけで生きると、生徒も教員もとたんに不適応を起こすに違いない。学校は程々にみんなで楽しく暮らすところではないか。朝先生に会えば、「お早うございます」と元気よく挨拶すれば良い所である。深刻に悩むところではないのではないか。

スクール・カウンセラーの相談室も保健室と同じく程々の相談をして終わってしまいがちである。深刻に悩まないから興味ある事例が出てこないし、研究も進まず、学会での研究発表も少ない。

しかし、養護教諭や教員で3時間の事例研究会に耐える事例を発表する人もある。そういう人を見るとやはりその人が自分の存在をかけて児童生徒にかかわっていることがわかる。

檀渓心理相談室は本来特別に悩む場所で、カウンセラー自身が自分のたましいを生きていていなければならない。教育分析や研究会はカウンセラーのたましいの重みをつけるために重要であると思う。