死期について

以前飛行機に乗れなくてもう一度街のホテルに帰るという夢を見たことをエッセイに書いたと思う。久しくそういう夢を見ないと思っていたら、夢をみた。

あるところでセミナーを終わって帰ることになった。残り物のご飯をお弁当に詰めてもらって、カバンに入れ、お財布などの入った小さなカバンを見ると、厚手の牛皮で、他人のものと思うくらい古びている。こんなにも古びてしまったのかと思って肩に掛けた。そして係の人に送られて外に出ると、お年寄りの他の人々はすでに駅に向かっていた。その人達は私より先に列車に乗るらしい。私の列車は12時で、まだ、9時だから3時間あると思う。私は途中ある施設に寄って、そこの人に頂いた弁当を渡し、それから駅に向かおうと思うところで目覚めた。

夢から醒めて、死期まで3時間あると思った。その3時間は、カバンがもう一つ代が代わって、それもクタクタになるくらいに長い期間ではないかと思った。

この夢を見て私もこれからひと仕事したいと前向きの気持ちになった。

去る、3月2日、高校の同級生H君が彼岸に突然旅立ってしまった。彼は開業医であったが、辞めて勤務医になった。開業医の間は地域の人々に対して全責任をもって仕事をしていたが、勤務医になって来た人を診て治療するだけの医師になってしまった。地域の人の健康を診るという仕事と治療だけの仕事は明らかに違う。彼はそういう仕事に失望していたのではないかと思う。ある夜突然の心臓発作であの世へ逝ってしまった。彼は以前から、俺はさっと逝ってしまいたいと言っていたがその通りになった。

友人の旅立ちはなにか深いところで私を揺り動かし、考えることが多くまとまらなかった。だから、ブログのエッセイの更新も中々できなかった。河合先生の年まであと1年あるとも思う。

友人が亡くなる3日前、私は「ある女性の死のプロセス」と題して学会発表するために抄録原稿を書き上げて送ったところだった。この事例はクライアントから、学会発表してくださいと50年くらい前に頼まれていたもので、やっとその責任を果たそうとした時であった。本当は昨年発表する予定だったが、事情があってたまたま今年になった。そしてこういうことになった。これもシンクロニシティであろう。

私はまだ死なないようだ。まだしなければならない仕事がたくさんあるので、死ねないらしい。死ぬときは、死期を感じて、静かに眠るように逝きたいと思っている。