たましいの生活

今年は東北の生きるたましいが爆発したかのような楽天の優勝があった。東北の人たちの生きる力を最高レベルまで引き上げた感じである。こういう時期に楽天の監督になった星野仙一監督は運が付いていたと思う。この優勝の背後には復興の掛け声で大きくなった東北のたましいがあると思う。

たましいの生活が大切であると思う。

しかし、先日のヤフーのニュースでは統合失調症の原因となる遺伝子の異常が見つかったと報ぜられた。幻覚や妄想などたましいの病と思っていたものが、遺伝子の異常に帰属させられると、病の背後にあるたましいはどこに行ったのだと私は考えたくなる。

かつて明治の初め、西洋から精神医学が入ってきて、幽霊などは妄想だと片付けられることになったとき、圓朝は怪談話、『真景(神経)累ケ淵』を作った。これが基で言文一致の日本語もできた。幽霊というたましいの話は人々に好まれ、広く読まれて、講談の速記録の文章が日本中に広まって、言文一致になった。たましいは眼には見えないけれど、現実の背後で個人の心を超えて広まって人の生き方を変えてしまう。

私の生活は春以来忙しくしていて、特に8,9,10月は忙しかった。10月の最後の週から急に暇になり、今日まであまり仕事が無い。この連休は庭の片付けに追われ、ゴミが山ほど出た。私の心にはこれほどのゴミが溜まっているのかもしれない。少し整理しなければならないと思って朝早く起きてこれを書いている。久しぶりのエッセイである。エッセイを書いて自分のたましいを取り戻したい。

10月の中旬今年こそはと思って志賀高原の紅葉狩りにご近所のみなさんと行ってきた。お天気は中一日雨に降られるということだったが、幸いお天気になり最高の紅葉狩りになった。ご近所のみなさんとご一緒に回ったので、私たち夫婦では到底回れそうもない丸池から琵琶池を巡るコースも歩み、3日目には奥志賀ゴンドラで上がり、焼額山の上の池めぐりもできた。ゴンドラで降りる時に見た紅葉は最高だった。そして、帰り湯田中駅前の蕎麦屋のきのこそばは、ご主人自慢のとれたてのきのこで作った香りの良いきのこそばだった。お天気にも食べ物にも、そして美しい紅葉を見ることができて、私のたましいはご近所の人たちと一つになった。たましいというのは人と人とのつながりの中で真の生きる道を見出すのではなかろうか。

先に述べたように、春から夏にかけて仕事で忙しくしていた。仕事は人の悩みを聞くことだから、クライアントの方とのたましいの交流はある。それぞれの人生があって、そこにクライアントのたましいを見つけて行く仕事は私にとっては意義深いことである。しかし、面接を終わるとすごく寂しい。昔、河合隼雄先生は恋人と別れるような寂しさと表現されたけれど、そういうたぐいのものである。河合先生の『未来への記憶』を読むと、ニジンスキー夫人との別れはそういうものではなかったかと思う。ニジンスキー夫人は最後に「私が結婚して彼を同性愛の相手から引き離したから統合失調症になったのではないだろうか」と河合先生に問いかけた。

それに対して先生は、「あなたがこうしたからこうなったと考えるよりも、彼はバレエに才能を見出し、同性愛に陥り、そしてあなたと結婚し、神と結婚するような狂気に至ったと考えるのが良いのではないか、ニジンスキーの人生はそういう物語であったのではないか」という意味のことを答えられている。

息子を自殺で亡くしたビンスワンガーは因果関係で考える精神分析をやめ、人のあり方を考える現存在分析に変わった。ビンスワンガーがいた病院で研修された河合先生はそのことが心に深く入っていたはずである。現存在分析を河合心理学に変換すると物語論になるのではないか。その物語論の発想は、実にニジンスキー夫人との出会いに始まっている。この物語論を心理学の中心に据えられたのはずっと後のことである。ニジンスキー夫人との間で生まれた物語はその時以来河合先生のこころの中で恋人のたましいのように生き続けていたに違いない。

河合先生のご長男である俊雄先生が、「お父さんはこれから何がしたい?」と聞いたら「やっぱり自分の夢かなあ」という答だったと、告別式の時に言われたと思う。とすれば後に『河合 夢をいきる』という本が出るかもしれない。

人は未来への夢を抱き、そして自分の夢を生きていくと思う。

休みにテレビを見ていると美しい外国の景色がふんだんに目に入ってくる。外国旅行も楽しいだろうと思う。しかし、自分の夢も捨てがたい。「やはり、自分の夢かなあ」というのが今の自分である。やはり、河合先生の懐から抜けていない自分である。