般若心境を読んで

サンフランシスコの禅センター慈光寺では、般若心経を呪文のごとく唱えているので、果たしてどんなお経なのか、知っておかなければならないと思って、帰国してすぐに読んだ。本棚から取り出して開いて見ると、線が引いてあるところがあり、確かに以前読んでいたことがわかった。色即是空という言葉は覚えていたものの、ほとんどわかっていないことがわかった。

慈光寺のアメリカ人は般若心経を呪(まじない)として唱え、心を浄らかにしている。私は毎日の心理面接で、般若心経を呪文の如く唱えることはできない。
私は毎日の心理療法で箱庭制作や夢分析を行なっている。そこに般若心経が生かせないかと考えた。

箱庭は面白半分で作れば一番良いけれど、そうして作った箱庭は意味不明である。また、記録した夢のシリーズも意味不明である。目に見える形はあるけれど意味不明である。つまり、箱庭も夢も空である。しかし、そのなかに真実がある。それは間違いなく空ではなく意味不明なものの向こうに確かなものがある。その確かなものが今、箱庭や夢になってクライアントや私の前に現れ出ている。空即是色である。

箱庭や夢のシリーズについて連想を聞きながら、その人の来歴や現在の情況や性格と照らし合わせて考えていると、一見意味不明な箱庭や夢の中に、その人の心の深層に、生きているいのちが感じられる。それは感じられるだけで、あまり言葉にならない。なんとなくこういうことが進行しているのではないかと感じられるとき、箱庭療法や夢分析が上手く行っていると思う。

河合隼雄先生は夢分析のとき、夢全体や夢の部分から連想を聞くだけで全く解釈的なことは言われなかった。そして私自身も自分の夢について余りわからなかった。夢がいくつもあって、その中の一つについて内容を詳しく分析するように仕向けられたときもあったが、私はなぜか抵抗して、自分が見た夢全てについて検討するようにした。私は個々の夢について優劣をつけず、すべてを平等に検討し、箱庭も含め、その人の内部から生じてくるイメージの様々な要素が何を示唆しているのか、慎重に注意深く見るようにしている。

そうしていると自分のなかに漠然とこうではないかという思いが浮かんでくる。その思い浮かんでくる心の背景が、浄らかな心なのではないかと推測する。そして自分の心が浄らかな心であればあるほど、箱庭や夢のシリーズから、なんとなくこういうことではないかと思うものが出てくる。それは不思議と記憶に残らないものである。けれどもそれは確かなことで私の面接を支えている。

このような意識について、金岡秀友は五蘊(ごうん)の説明のところで、第五の識蘊について次のように説明している。

「最後の「識」は、細かい区分が仏教において進み、生死にかかわりなく根源的な意識、潜在的に覆蔵されている意識。(蔵識=阿羅耶識)の存在が考えられるようになったが、これは記憶を伴わない、したがって個人的でない意識であり、理性・理法ともいうべきものである。」

落ち着いて内面を静かに観察しているとなんとなくわかる、けれども記憶に残らない意識、しかも、そのなんとなく感じられる意識は理にかなったもので、確かなものである。

箱庭や夢のシリーズは一見意味不明であるが、心を落ちつけて慎重に見ていると何か感じられて来るところがある。それを浄らかな心から汲み取るのが私の仕事であると思う。

箱庭や夢のシリーズから見えてくるもの、それはその人が生きていく心の道筋である。私たちはこの生きていく心の道を探している。それは老子のいう道と通じるものではなかろうか。

老子第21章には、道は漠然としてわからないけれども、そのなかに確かなものがあり、それは生きていく力になると書いてある。つまり、私たちの心の深いところの、かすかにしかわかからない、漠然としてもやもやとした心のなかに確かなものがあり、それが生き方を支えていくと老子は言っていると思う。

般若心経の般若も、老子の道も、同じようなことを言っているのではないか。そして、それは理解し難い深淵の知恵、大いなる知恵といって、私ども凡人には到底到達しがたい境地であるけれど、実際の私たちの心理療法では身近なこととしてあるのではないかと思う。
みなさんはどう感じておられるだろうか。

私は般若心経をわかったとは言わないが、般若、つまり、浄らかな心に至ることを常に心がけて生きているお坊さんのように、毎日の面接でクライアントの話を聞きながら、その話は「色即是空、空即是色」であるとして、クライアントの深いいのちに向かい合っているのではなかろうか。