続々・般若心境を読んで

般若心経と言えば色即是空という言葉から、訳のわからない難しいものと、私はおもっていた。今度読んでみて、色即是空は般若心経の中ではほんの一部分に過ぎず、たましいの救いは如何にしてなされるかということを説いたお経であることがわかった。つまり、般若心経は心理療法の基本を説いたお経なのである。

初めの方に、「度一切苦厄(どいっさいやく)」という言葉が出てくる。観音菩薩は妙智力によって衆生の一切の苦厄を済度(さいど)すると説かれている。この世から仏の楽土へと済度することが観音の働きであり、般若心経の目的であると金岡は解説している。

そこを私は何気なく読み過ごしていた。仏教的な説明でわかりにくかったのである。そして、ずっと後の方にまた出てくる。

「般若波羅蜜多は・・・・能く一切の苦を除き、真実にして虚しからず」とあり、ここを金岡は「真実のみ苦を除く」と解説している。

「この真実とは、・・・現実を離れた真理ではなく、現実の中にある真実なのである。かくて、この真実の働き(用)は、真実そのものを明らかにし、真実ならざるものから来る一切の苦を取り除くことになる。」と金岡は説いている。

現実の向こうにある真理でなく、現実の中にある真実、そこに基づくことが救いとなるのである。真理と真実、その二つは微妙に違う。真理は抽象的で現実を離れても存在するようにも感じられる。「度一切苦厄」というとき、この「度」をこの世の向こう側、つまり彼岸に渡し、浄土へ救済すると考えると、現実のこの世での救済ではなくなる。しかし、金岡の解釈はこの世の現実での救済を考えている。

つまり、真実は事実と密着して現実のなかに生きている。その現実の真実に触れるとき救いがあるのである。クライアントのいうことを共感し受容するとクライアントは自ら問題を解決すると来談者中心療法は仮定するが、般若心経では、現在のその先に救いが生じてくるのでなく、クライアントの現実のなかに真実があり、その真実を見ることに救いがあると言うのである。

私たちカウンセラーがしなければならないことはクライアントの現在の真実をしっかりと見ることである。フロイトが抑圧と言っている自分が防衛を取り払ってクライアントが経験した現実のなかの真実をみること、それが救済になるのである。

私たちカウンセラーが浄らかな心を目指して、つまりは、自我の偏見にとらわれない、できるだけ清浄な心の目でクライアントの現実を慎重に見て、見えてくるものでクライアントと相対して意見を交換するとき、本当の真摯な対話が起こる。私はクライアントができるだけ触れないようにしているところに、真直ぐに入って行くようにしている。クライアントは恐れ傷つくが、その真実な心の出会いから何かが動き出して、クライアントが自分の人生を生きることにつながるように思われる。

現実を離れた向こうの彼岸に救いがあるのではなく、この現実の只中に救いがあると心経はいう。どんなに難しいことでも、どんなに不幸なことでも、その事実のなかに真実がありそれが救いとなると。言い換えれば、どんな事実の中にも救いとなる真実があるということである。私たちカウンセラーの仕事は、クライアントの述べる事実の中の真実に出来るだけ迫っていくことではなかろうか。その真実は浄らかな心でしかわからない。そこに教育分析の必要性があると思う。