河合先生隼雄先生はこうおっしゃった7 “心をどう考えますか”

あるとき歩きながらだったと思うが、心をどう考えますかと先生が聞かれた。私の頭には数学の展開式のような、何かの流れが思い浮かんで、とっさにプロセスですと答えた。それからしばらく経って私がそのことを忘れていたころ、横断歩道を渡りながら、「あの(心は)プロセスという答えが気に入った」と言われた。私は大変うれしかった。

心は常に動いてやまないものである。M先生は「心はコロコロ変わるからこころというんや」とカラカラ笑いながらおっしゃった。球がコロコロと転がって行くような感じで、それでは物語につながらない。私のプロセスのイメージとは違っていた。

それは昭和40年代の前半の頃のことで、その頃先生ははっきりと心を物語としてとらえるというお考えがあったのではなかろうか。

人は自分の物語を、半分は無意識の中にある可能性の実現に待ちながら、一部は世の中の偶然の出来事と出会いながら、一部は自分で考え選択しながら作っていく。自分の物語は生きてみないとわからない。

人生の無意識から出てくる部分のほんの一部分は夢や箱庭遊びでわかるかもしれない。夢や箱庭は心のプロセスの一部分を切り取った見る生検みたいなものではないかと思う。

考えてみれば身体は常に同じであるように見えるが、日々刻々と変化して止まない。身体もまたプロセスを生きている。私の中には心と身体という二つのプロセスがあって、それらが微妙に響きあって私の命がある。私の身体の違和感、今あるアレルギーや逆流性食道炎などは、心の外界との不協和を反映しているらしい。逆流性食道炎は胃の中に入ったものを上に戻したい傾向を示すものだから、自分には飲み込みがたい事態が起こっていると考えるべきだろう。身体症状も自分の人生ドラマの一面を象徴しているものである。

この物語という方法をどのように心理学に組み込んでいくのか、そのことについて先生ははっきりとは示されなかったのではないかと思う。河合心理学はここでストップしているのではないか。昔話や神話、児童文学や小説に如何に心が語られているかを沢山の本で示されたけれど、目の前にいるクライアントの物語をどうするのかは示されなかった。示しようがなかったのではないか。

クライアントの物語は現在進行形でカウンセラーとの関係で作られているのだから、次にどんな展開になるのかお楽しみということになる。クライアントの物語はいつも予想外の展開を示すというのが先生の持論であった。そこから考えると、私たちカウンセラーはクライアントの人生のドラマを舞台に展開させるプロデューサーの役割になるのではないか。

今の世の中の心理学は、認知心理学が医学主導で進行しており、そこでは動いてやまないとらえどころのない心なんかまったく幻でしかない。物語でとらえる心、イメージのプロセスでしかとらえられない心、それは認知心理学の視野の外にある。